康宗后李氏
- 康宗の后李氏は、もと恵宗の宮人で名を春鷰といった(一に李倣の妹というが疑わしい。○『金鳳外伝』にいう、延鈞は春燕のために東華宮を造り、珊瑚を棁とし、琉璃を櫺瓦とし、檀楠を梁棟とし、真珠を簾幙とし、金を範して柱礎とした、と)。姿色があり、康宗はこれと密通していた。恵宗がすでに病んでいたころ、康宗は陳后を通じて春鷰を求めたが、恵宗はしぶしぶこれを与えた。康宗が即位すると賢妃に立て、輿に乗るときは共に乗り、坐るときも共に坐った。通文の改元に及んで再び皇后に立て、別に紫薇宮を築いて皇后の遊幸の場とし、その土木の盛大さは東華宮を超えた。
- 連重遇の乱に、康宗は后とともに北闗を出て梧桐嶺に至り、皇族の従子の繼業に殺された(一に墻にぶつかって死んだといい、時に通文四年七月十三日である)。蓮花山の側に葬られ、墓の上に異花を生ずる木があり、鴛鴦が首をよせあうさまに似ていたため、当時の人はこれを「鴛鴦樹」と名づけた。これより先、陳后も恵宗とともにこの山に葬られていたが、後に南唐の軍が李仁達を古城で破ったとき、乱兵が諸陵を暴いて宝玉を剔り取ったところ、后と陳后は容色がなお生けるがごとくで、鮮血が流れ出して山を赤く染めた。世の人はその山を「胭脂山」と呼ぶようになった。