十国春秋卷九十四 閩五 列傳 后陳氏

要約

后陳氏は福唐の人(『金鳳外伝』には福清黄安郷の人とある)。父侯倫は唐末の福建観察使陳巌に容色をもって寵愛され、その妾陸氏と通じて娘を身ごもらせた。巌の没後、養い親となった妻の弟范暉が留後を自称すると陸氏はこれに身を託して娘を生み、鳳が懐に入る夢にちなんで「金鳳」と名づけ、陳の姓を冒した。太祖が閩に入って范暉を討ち殺すと金鳳は民間に流落し、一族の陳匡勝に養われた。

開平三年、太祖が良家の女を選んで後宮に充てた際、年十七であった金鳳は才人として召され、太祖没後は恵宗に寵愛されて淑妃、竜啓元年には皇后に立てられた。仮の父陳巌を威武軍節度使に追封し、母陸氏を長楽郡夫人とするなど一族を優遇し、新築の長春宮では金龍の蝋燭数百枝を灯して夜通しの宴を重ね、水晶の屏風や龍舟遊びなど贅を尽くした奢侈の逸話が数多く伝わる。龍舟遊びでは宮女に歌を歌わせ、「龍舟揺れて東へまた東へ、蓮を採る湖上は紅にまた紅」の曲が奏でられたと伝わる。恵宗が晩年に風疾を患うと、后は寵臣帰守明・李可殷らと密通するようになり、恵宗のために作らせた鏤金の九竜帳に守明が毎夜泊まったことから、国人は歌でこれを揶揄したが誰も面と向かって口に出せなかった。李倣の乱が起こると、皇后は一族の匡勝・守明とともに殺害された。

現代語訳全文

后陳氏

  • 后陳氏は福唐の人である(『金鳳外伝』には福清黄安郷の人とある)。父の侯倫は少年の頃から美しい容姿を持ち、唐末に福建観察使の陳巌に事え、その容色をもって寵愛され、寝所に出入りし、巌の妾の陸氏と通じて身ごもった。まもなく巌が没すると、妻の弟の范暉が自ら留後を称した。陸氏は暉に身を託し、娘を一人生んだ。その夕、鳳が飛んで懐に入る夢を見たため、幼名を「金鳳」とし、陳の姓を冒(かぶ)した。これがすなわち恵宗の后である。太祖は閩に入って暉を攻め殺し、金鳳は民間に流落したが、一族の陳匡勝がこれを収め養った。
  • 開平三年、太祖は良家の女を選んで後宮に充てたが、その時金鳳は年十七、性質はしとやかで艶やかであり、歌舞をよくした(『通鑑』にはまた、醜くて淫らであったとある)。太祖はこれを召して才人とした(『通鑑』にいう、もと審知の侍婢であった、と)。その寵幸は黄夫人に並んだ。常に西湖の傍に水晶宮を築き、十余里にわたって亭榭を並べ、金鳳はその時に扈従して子城の複道を通って出遊したが、恵宗の時ほど盛んではなかった。
  • 恵宗が紫宸門に御し金鳳を召し見て大いに喜び、淑妃に封じて甚だ寵愛した。龍啓元年、皇后に立てられ、仮の父である陳巌を威武軍節度使に追封し、母の陸氏を長楽郡夫人とし、一族の守恩・匡勝を殿使とし、初めて長春宮を築いてそこに住まわせた。恵宗はしばしばその中で夜通しの宴を開き、宴を開くたびに金龍の蝋燭数百枝を燃やして周囲を明るく昼のようにし、宮女数十人に杯盤を捧げさせ、多くは金・玉・瑪瑙・琥珀・玻璃の類の器を次々と進めさせ、几筵も設けずに酒を酌み交わし、嬉笑しながら楽しんだ(『外伝』にいう、延鈞〈恵宗〉は長い枕と大きな寝台を張り、金鳳を抱いて多くの宮女とともに裸で寝た。また日南に使者を遣わし水晶の屏風を作らせ、周囲四丈二尺、金鳳とその内側で淫らに戯れ、宮女に屏風越しに覗かせた。二月の上巳には延鈞は桑渓で禊を修め、金鳳は後宮の女たちと文錦の襍衣を着て水辺に列座し、觴を流して楽しみ、沈麝の香りは遠近に達し、道中では絲竹管弦が代わる代わる奏でられた。端午の日には西湖に彩舫数十艘を造らせ、舫ごとに宮女二十余人を乗せ、短い衣を着せて楫を漕がせ先を争わせた。延鈞は大龍舟に御して金鳳が楽しみ遊ぶさまを眺め、宮女に同じ声で歌を歌わせた。その曲に「龍舟揺れて東へまた東へ、蓮を採る湖上は紅にまた紅、波は澹澹として水は溶溶、奴(われ)は荷花に隔てられて路が通じない」とあり、また「西湖と南湖で彩舟を競い、青い蒲と紫の蓼が洲に満ちる、波は渺渺として水は悠悠、長く君王の万歳を奉じて遊ぶ、遊人・士女の綺繍は岸に沿って雑然と市のようだ」とある)。
  • 恵宗は晩年、風疾を得ると、后は寵臣の帰守明と福州の官営工房である百工院で密通するようになった。使李可殷は若い頃から守明と親しく、守明を通じて后とも通じるようになり、殿内に出入りしていた。恵宗はかつて錦工に命じて鏤金五彩の九龍帳を長春宮に作らせたが(一に八龍帳を織り、外は自分を一龍としたとも言う)、完成すると献上され、守明は毎夜その中に泊まった。国人はこれを歌って「誰が言ったか九龍帳、ただ一人の帰郎を貯えるだけ」と歌った。李倣の乱が起こると、后は匡勝・守明とともに殺された。