十国春秋卷八十七 呉越十一 列傳 江景防

図籍を沈めた諫死

  • 江景防、字は漢臣、常山の人である。忠懿王に仕えて侍御史の官にあった。五代の時代、呉越は一隅の地をもって四方を防いでいたので、費用に限りがなく、田賦・市租や山林川沢の税をことごとく旧額の数倍に加増していた。宋がすでに諸国を平定すると、賦税は常に旧来の台帳に基づいて決定するようにしていた。忠懿王が入朝する際、景防は侍従として台帳を献上することになっていたが、嘆いて言った、「民は苛酷な取り立てに苦しんできて久しい。もし有司にこの台帳をそのまま用いさせれば、民の困窮は終わりがなくなる。私はむしろ自らこの責めを負おう」と。そこで台帳を河に沈め、宮闕に赴いて自らその紛失の事情を申し出て弾劾を求めた。宋の太宗は大いに怒り、彼を誅殺しようとしたが、ほどなく沁水尉に左遷され、そのまま田里に隠棲して没した。ほどなく太宗は右補闕の王永に呉越の田税を均させるよう命じ、もとは一畝あたり五斗を税としていたのを、永は改めて一斗に定めた。この減税の由来は、実に景防が台帳を沈めたことに端を発すると人々は言い伝えている。景防の子孫は後に相継いで正科(正規の科挙)に登第した者が四十人に及び、栄達が絶えなかった。