文穆王を守った先見
- 陸仁章、睦州の人である。若くして身分卑しく、大志を抱きながらも困窮して武肅王の園卒となっており、当時の人々はまだこれを知らなかった。武肅王は常に府の庭園を巡覧しており、仁章が樹木を植える姿に知恵を見出し、心に留めた。淮南の兵が孫琰を蘇州で包囲し、城を三重に取り巻いて通じる道がなかったとき、武肅王は仁章に計略を立てさせて城に入らせたところ、果たして琰の報告を得て出てくることができた。これによりますます称賛され、王の孫たちと同様に扱われ、官を累進して両府軍糧都監使となり、ほどなく内牙指揮使に転じた。
- 武肅王が薨去すると、文穆王はすでに勅命を受けて軍府の事を統轄していたが、まだ兄弟とともに一つの幄で喪に服していた。仁章は進み出て言った、「令公(文穆王)は先王の覇業を継がれたのですから、将吏が朝夕に慕って参上するときは、諸公子とは別の場所にいらっしゃるべきです」と。そこで担当の者に別の幄を設けさせ、文穆王をそこに住まわせ、将吏に告げて言った、「今後はただ令公にのみ拝謁せよ。諸公子の従者がみだりに立ち入ることを禁ずる」と。昼夜警戒を怠らず、少しも休むことがなかった。宝正の末年、左右の者はみな文穆王に取り入っていたが、仁章だけはしばしば事によって彼に逆らった。この頃に至って王がこれをたびたび労うと、仁章は言った、「先王が在位のときには、私は令公にお仕えすることを知りませんでした。今日尽力するのも、なお先王にお仕えするのと同じ心持ちからです」と。文穆王は長く感嘆した。
- これより仁章は指揮使の劉仁把とともに国政の中枢を担った。仁章の性格は剛直で、仁把は人を誹謗するのを好み、大いに衆人の憎しみを買った。ある日、諸将が府に赴いて二人を誅殺するよう請うたが、文穆王は従子の仁俊を遣わして諭させて言った、「二将は先王に仕えること久しく、私はまさにその功に報いようとしているのに、お前たちが私憤を晴らそうとして殺してよいものか。私はお前たちの主なのだから、私の命に従うべきであろう。さもなくば、安国に帰って賢者の道を避けるがよい」と。衆はこれを恐れて退いた。そこで仁章を衢州刺史とし、仁把を湖州刺史とした。仁章は官を累進して保大軍節度使・同参相府事に至り、天福四年に没した。仁把は富春の人である。