南征失利と度量
- 仰仁詮、湖州の人である。文穆王に仕えて牙将となり、練達をもって称された。王の弟の元珦が法に背いたとき、文穆王は仁詮に明州に赴いて彼を召還するよう命じたが、左右の者は元珦が扱いにくいことを慮り、鎧を内側に着けて行くよう勧めた。しかし仁詮はついに普段の服装のまま聴事の場に赴き、元珦とともに杭州に帰った。その様子は落ち着いて余裕があり、まったく慌てるところがなく、当時の人々はみなその度量に感服した。しばらくして、建州刺史の王延政が閩主と互いに攻め合い、杭に援軍を乞うたので、仁詮は命を受けて救援に赴いたが、軍が長らく帰還せず、そのまま延政に敗れた。忠献王が立つと、仁詮の娘を元妃に迎え、官を累進して寧国軍節度使・同参相府事となった。ほどなく没した。弟の仁謙は忠懿王に随って宋に帰り、太子舎人を授けられ、出て永嘉県知事となった。
史論
- 論に曰く:崧は玉のような質、金のような相を備え、内面に道理を通わせていた。光業は文章が典雅で、国家を美々しく飾った。仲逹・鼎は人望が盛んで、事に遇えば決断でき、並び立って互いに輝き合い、国政の枢要に出入りした。彬彬たること、みな国を華やかにする逸材であった。仁詮はもとより幹略があり、南征では利を失ったものの、末路の過失をおおむね覆い隠すほどの功があったといえよう。