十国春秋卷八十四 呉越八 列傳 屠瓌智
要約
屠瓌智、字は寶光、晋の将軍瓌之の後裔とされ、その先祖は河東の人で乱を避け澉川へ移り住み海塩の人となった。母顧氏が璧を抱く夢を見て光を放ちながら生まれたことから瓌智と名づけられ、姿は堂々として若くから勇略に富み、文章にも巧みであった。唐代にしばしば挙にのぞんだが及第できず、武肅王の黄巣討伐に剣を携えて従い謀略を提供して幕府に参画するに至った。董昌の僭号にはまっさきに討伐を勧め、昌の誅殺後その功により指揮使に任じられた。乾寧四年、顧全武らとともに王弟の鎮を助けて海路より嘉興を救援し賊将楊勝頓金ら二十余人を生け捕り、功を計られて常州刺史を遙領、翌年春には越州指揮使に再遷、光化元年には衢州刺史陳岌の乱討伐にも従軍し、三年には湖州守備に転じた。
徐綰・許再思の乱に際し、湖州刺史高彦の子渭とともに援軍として遣わされ、渭が「今日は吉ではない」と躊躇うのを尻目に「主命に背けば不忠、畏縮すれば不勇」と席を蹴って進み、まっすぐ霊隠山の賊塁に向かった。朝から夕暮れまで転戦すること数里、身に百箇所の傷を受けながら敵の首魁数人を斬ったが、矢が尽き援軍も絶え、伏兵によって渭とともに討たれた。享年五十二。武肅王はその忠義を哀れみ、衣冠をもって招魂させて手厚く葬らせ、忠義軍匡国功臣・武康節度使らの官を追贈した。子の龍驤・昱・晟もそれぞれ官に就いた。
かねて詠んでいた「身を軽んじるのはすべて義のため、主に殉じてこそ初めて忠となる」という詩句が、その死によって図らずも実証されたと伝えられる。史論では、文武を兼ねて長寿を得た杜建徽と対比しつつ、身を顧みず殉じた屠瓌智を古の名将に劣らぬ忠烈の士として並び称える。
現代語訳全文
嘉興援軍と忠烈の死
- 屠瓌智、字は寶光、その先祖は河東の人であり、晋の将軍瓌之の後裔である。祖父のある人物は乱を避けて澉川に移り住み、これより海塩の人となった。母の顧氏が璧を抱く夢を見て、光を放ちながら生まれたので、瓌智と名づけられた。瓌智の姿は堂々として立派であり、若くから勇略を備え、さらに文章にも巧みであった。唐の時代にしばしば挙にのぞんだが及第しなかった。武肅王が郷兵を起こして黄巣を追い払ったとき、瓌智は剣を携えて従い、しばしば謀略を提供して幕府に参画するに至った。董昌が僭号すると、瓌智はまっさきに討伐を勧め、昌が誅殺された後、その功により指揮使を授けられた。
- 乾寧四年、顧全武とともに王弟の鎮を助けて海路より嘉興を救い、賊将楊勝頓金ら二十余人を生け捕りにした。その功を計られて常州刺史を遙領し、翌年春には越州指揮使に再遷した。光化元年、衢州刺史陳岌が反乱すると、瓌智はまた全武らとともにこれを討ち平らげた。三年、湖州の守備に転じたが、徐綰・許再思の乱が起こると、刺史の高彦は子の渭を瓌智とともに援軍として遣わした。渭は言った、「今日は吉ではありません」と。彦は言った、「君父の難に赴くのに、どうして吉日を選んでいられようか」と。瓌智は席を蹴って立ち上がり言った、「主命に背けば不忠、畏縮して進まなければ不勇。忠のために死に、勇のために死ぬのは丈夫の本分である」と。渭とともにまっすぐ霊隠山の賊塁に向かうと、敵勢はまさに盛んで、幾重にも包囲された。二人は朝から夕暮れまで転戦すること数里、身に受けた傷は百箇所に及んだが、時に刀を奮って一声叫び、敵の首魁数人を馬上でこれを斬った。矢が尽き援軍も絶えると、空の弓で敵を防いだが、伏兵が発動してついに二人とも害された。享年五十二。武肅王はその忠義を哀れみ、衣冠をもって招魂して葬らせた。天宝五年、特に忠義軍匡国功臣・武康節度使・銀青光禄大夫・検校尚書右僕射・開府儀同三司・上柱国を贈られた。子の龍驤は澉水鎮遏使、昱は(闕)節度使、晟は湖州判官であった。
- 瓌智は常々「輕身都是義、徇主始為忠(身を軽んじるのはすべて義のためであり、主に殉じてこそ初めて忠となる)」という志の詩を詠んでいたが、ここに至ってその予言に符合した。
史論
- 論に曰く:鄖国(杜建徽)は出でては将、入りては相となり、まことに文にも武にも通じ、儋(担い荷)に爵を得て遐年(長寿)に至ったのは、決して僥倖ではない。君福は戦上手であり、圭は守り上手であって、いにしえの名将の風格があった。瓌智は身を顧みずに死ぬことを厭わず、ついに身をもって殉じ、今なお忠烈の士として称えられ続けている。