十国春秋卷八十四 呉越八 列傳 杜稜
要約
杜稜、字は騰雲、新城の人。父仲明の血を引き、乾符・広明の頃の盗賊討伐のため組織された「杭州八都」の一つ東安都将を務め、董昌を長に推した際、武肅王をその副として仕えた。潤州の乱討伐で丁重徳・趙君度を破って常州を取り帰還させた功により常州制置使となり、子の建思には内政、建徽には外征、建孚には往来経度をそれぞれ司らせ、いずれも武芸で称された。
田頵・李友に一時捕らえられたが後に釈放され、大順二年には淮南の侵攻に備えて険阻を活かした東安城を十か月かけて築いた。乾寧二年、董昌討伐に呼応した淮南の勇将田頵・安仁義の猛攻を受けたが、井戸に神が応じて泉を湧かせた逸話も伴いつつ城を守り抜き、周辺四鎮の民を城内に集めて救い、その井戸は「杜公井」と呼ばれた。
董昌誅殺後、両浙諸軍都指揮使・行軍司馬に進み、潤州刺史として没した。子建徽の貴顕により太師を追贈され、祠が新城県西に建てられた。「武勇都」の設置に「狼子野心、いつか害となる」と反対して先見の明を示したことでも知られ、後継の建思・建孚・建徽もみな功名を挙げた。
現代語訳全文
八都から東安城の守将へ
- 杜稜、字は騰雲、新城の人である。父の仲明は仕官せず、水部員外郎を累贈された。唐の乾符・広明の間、盗賊が横行し、両浙の各地を荒らして寇掠すること日々絶えなかった。杭州は諸県の郷兵を練り、これを討たせた。稜はこのとき東安都将となり、その部隊は「武安営」と号された。董昌・徐及・凌文舉らと共に「杭州八都」と称され、昌を推して長とし、武肅王をその副として仕えた。
- 武肅王の功業が日ごとに盛んになると、僖宗は王を杭州刺史に任じた。稜は諸子に語って言った、「私はいつも人を責めるとき十罰以上に及ぶことがない。ところが銭公(武肅王)は斬罪の裁定を下すたびに談笑して自若としている。大事を成す者は必ずこの人であろう」と。そこで心を傾けてこれに仕えた。
- 潤州の牙将劉浩がその帥の周寶を追い出したので、寶は常州に逃れ、浩は薛朗を帥に推した。武肅王は稜に成及・阮結とともにこれを討たせ、その将の丁重徳・趙君度を破って常州を取り、寶を杭に迎えて帰した。奏上して稜は常州制置使に任ぜられた。稜はその軍を諸子に分けて属させ、建思には内政、建徽には外征、建孚には往来経度をそれぞれ司らせたが、いずれも武芸をもって称された。
- 龍紀元年、宣州の将田頵・李友(一に宥に作る)が来攻し、地下道を掘って甲兵をこれより送り込み、夜、稜の寝室に入って稜を寝台の上で捕らえて連れ去ったが、後に釈放されて帰った。大順二年、武肅王は淮南がしばしば辺境を侵すため、稜に東安城を築いて自ら固めるよう命じた。稜は険しさと平坦さを見計らって場所を定め、資材を活用して山により城を築き、地をめぐらして池とし、十か月かけて完成させた。昭宗が武肅王に鎮海節度使を領させると、稜を副使に任じた。
董昌討伐と晩年
- 乾寧二年、武肅王は勅命によって董昌を討伐したが、昌は淮南に援軍を乞い、淮南の将の田頵・安仁義が兵を率いて東安を攻めた。稜は城に拠って自守したが、たまたま水が乏しく、井戸を百尺掘っても泉が出なかった。稜が黙して神に祈ると、泉がたちまち湧き出た。このとき頵と仁義は淮南の勇将と号され、楼櫓は空を翔け、矢石が交錯した。稜は臨機応変に敵を防ぎ、日々淮南の兵を城下で斃すこと数知れなかった。淮南の兵は百般の攻め方を試みたが下すことができず、これにより紫渓・保城・建寧・靖江の四鎮の民はみな東安に集まって身を保った。民はその恩に懐き、その井戸を「杜公井」と呼んだ。
- 翌年、董昌が誅殺されると、威勝軍を改めて鎮東と号した。唐は武肅王を鎮海・鎮東節度使に任じ、稜を両浙諸軍都指揮使・行軍司馬に進めた。さらに翌年、安仁義が婺州を攻めると、武肅王は稜に兵を率いてこれを救わせたところ、仁義は兵を移して睦州を攻めたが、ついに克つことができなかった。稜は官を累進して潤州刺史となり、その職で没した。祠を新城県の西に建てるよう命じられた。
- 後に子の建徽の貴顕によって太師を贈られた。初め、孫儒が死ぬと、士卒の多くが浙西に逃げてきた。武肅王はその驍悍さを愛して中軍とし、「武勇都」と名づけた。稜はこれを諫めて言った、「狼子野心(狼の子は野生の心を持つ、油断ならぬということ)ですから、いつか必ず害となるでしょう。士人に代えるべきです」と。王はこれを聞かず、後に徐綰の乱が起こると、王は使者を遣わして稜を祭らせ、その先見の明を称えた。建思・建孚・建徽は後にみな功名によって顕れたが、建徽には別に伝がある。