節倹をもって武肅王を諌める
- 荘穆夫人呉氏は安国県の人である。父の仲忻は浙西観察判官、累贈して吏部尚書となった。当初、武粛王が仲忻の家との婚姻を議した時、みな王が豁達で大度なるも産業を事とせぬ人物であることを理由に許すまいとしたが、夫人の伯父(世父)は人を知る鑑識があり、固くこの縁組みを進めた。嫁いでからは閨門(家内)は整粛で、孝敬(舅姑への孝行)は礼を尽くした。武粛王は性が厳急であったが、夫人は常に顔色を和らげてこれを諌めた。諸子を撫愛すること一体のようであり、燕・晋二国に歴封され、呉越国正徳夫人に至った。
- 夫人が常に奉国寺に遊んだ折、王は帛縑(絹布)を載せて施しの備えとするよう命じたが、夫人は言った、「妾は機杼(機織り)の労をつぶさに嘗めております。にわかに遊賞のために靡費(浪費)することは、民を恤(あわ)れむ道ではありません」。そこで受けずに罷めた。夫人は毎年春に衣錦軍に帰ることを常とし、武粛王はこれに語って言った、「陌上(あぜ道)の花が開けば、ゆっくり帰ってくればよい」。人々はその語を用いて歌曲を作り、今に伝わる。天宝十二年、薨じ、年六十二。諡して荘穆といった。子十三人があった。また錦南郷慈智寺の西に梁国夫人の墓・扶風夫人の墓・韋夫人の墓があり、いずれも武粛王の夫人であるというが、その名号は史冊に見えず、姑(しばら)く疑いを闕(か)いておく。