十国春秋十國春秋卷七十七 呉越一
呉越の武粛王・銭鏐(字は具美、852年生)。杭州臨安の人で、若いころは無頼で塩の密売を生業としたが、弓馬に長け、董昌の偏将として王郢・黄巣の乱に功を立てた。浙東の劉漢宏を滅ぼして杭州を握り、のちに帝を僭称した董昌を討って越州を平定し、鎮海・鎮東両軍の節度使として両浙を領した。唐からは彭城王・越王・呉王と進封され、鉄券を賜り、梁の建国後は呉越王に封じられた。呉越国の創業者である。
年表(23件)
- 852年唐の大中六年二月十六日、杭州臨安の臨水里に生まれる
- 乾符二年875年董昌に偏将として推され、反乱を起こした王郢を撃破する
- 乾符五年878年宣州・歙州の群盗を平定し、石鏡鎮衙内知兵馬使となる
- 乾符六年879年伏兵で黄巣の先鋒を破り、八百里の計で臨安を素通りさせる
- 廣明元年880年杭州に八都が置かれ、董昌の副として八都の兵を統率する
- 中和二年882年浙東の劉漢宏の軍を西陵と江上で連破する
- 中和三年883年劉漢宏の諸軍を各地で破り、越州へ敗走させる
- 光啓二年886年越州を攻め落とし、捕らえた劉漢宏を会稽の市で斬る
- 光啓三年887年唐から杭越管内都指揮使・杭州刺史に任じられる
- 文德元年888年潤州を落として薛朗を捕らえ、検校司空を加えられる
- 大順元年890年周囲五十里余の新城を築き、検校司空・同平章事を加えられる
- 景福元年892年宣城で孫儒を破り、杭州が武勝軍に昇格して防禦使となる
- 景福二年893年十三都の兵と人夫二十余万で羅城を築き、鎮海軍節度使となる
- 乾寧二年895年帝を僭称した董昌の討伐を命じられ、彭城郡王に封じられる
- 乾寧三年896年越州を平定して董昌を斬り、鎮海・鎮東等軍節度使となる
- 乾寧四年897年嘉興を救い蘇州を回復して、唐から金書鉄券を賜る
- 乾寧五年(光化元年・)898年蘇州・崑山を回復し、検校太師と定乱安国功臣の号を賜る
- 光化三年900年王壇を宣州へ追い、婺州・衢州を巡って陳岌を降す
- 光化四年(天復元年・)901年守侍中・彭城王に進み、衣錦営が衣錦城に昇格する
- 天復二年902年越王に封じられるが、徐綰らが叛き田頵が杭州を攻める
- 天復四年(天祐元年・)904年唐の皇帝から呉王に進封される
- 天祐三年906年唐の使臣の王鉅・裴筠から呉王の竹冊を授かる
- 天祐四年907年温州の盧佶を斬り処州の盧約を降し、梁から呉越王に進封される
出自と誕生(852年)
- 武粛王は姓を銭、名を鏐、字を具美といい、杭州臨安の人である。唐の大中六年二月十六日(852年)、臨安の臨水里に生まれた。
- これに先立ち、県内が旱魃に見舞われ、県令は道士の東方生に龍を起こして雨を祈らせようとした。東方生は「茅山の前の池に龍がいる。起こせば必ず大異が生じる」と言い、県令は取りやめた。翌年また旱魃となると、東方生は銭鏐の生家を指して「池の龍はすでにこの家に生まれた」と言った。銭鏐が生まれてわずか数日後のことであった。
- 生まれた夜、父の銭寛は他出していた。隣人が駆けつけて「今おたくの裏を通ったら、大勢の武装した馬の音が聞こえた」と告げたので、銭寛は急いで帰った。すでに銭鏐は生まれており、部屋には赤い光が満ちていた。銭寛はこれを怪しみ、水丘氏の井戸に捨てようとしたが、祖母が並の子ではないと察して固く止めたため、幼名を「婆留」とし、井戸もその名で呼ばれた。
- 里には大木があり、銭鏐は幼いころ子供たちとその下で遊んだ。大石に腰かけて子供たちを指揮し、隊伍を組ませて号令をかけるさまはよく統率が取れており、子供たちは皆彼を畏れ敬った。
- まもなく祖父の銭宙が没した。葬ろうとする前夜、大風が野の木を引き抜いた。翌朝、占い師は銭寛に「木が抜けた場所こそ天の啓示だ。そこに葬るがよい」と言い、さらに銭鏐の背を撫でて「この孫は必ず貴くなる」と言った。
- やや成長して径山に遊んだとき、洪湮という道人が人里離れた所でたびたび出迎え、約束もないのに出会った。理由を問うと洪湮は「あなたは常人ではない。だからあらかじめ分かるのだ」と答えた。
- 壮年になっても無頼で家業を営まず、塩の密売を生業とした。県の録事である鍾起の子たちが銭鏐と酒を飲み博打を打っていたので、鍾起は禁じたが、子らはひそかに交際を続けた。
- 豫章の人で天文を占う者が、斗牛の分野に王気があると見た。斗牛は銭塘の分野に当たるので、銭塘に行って占い、臨安だと突き止め、臨安に移って人相見を装い市中に潜んで人を探した。鍾起と親しかったこの男は「あなたの町に貴人がいると占ったが、市中で探しても見つからない。あなたの相も貴いが、それには足りない」と語った。鍾起は酒宴を設けて町の賢豪を集め、ひそかに見せたが、いずれも該当しなかった。
- ある日、豫章の人が鍾起を訪れているところへ銭鏐が外から来て、鍾起を見て引き返そうとした。豫章の人は遠目に見て大いに驚き、「これこそ真の貴人だ」と言った。鍾起が「隣に住む銭という若者にすぎぬ」と笑うと、彼は銭鏐を呼び入れてじっと見つめ、鍾起を顧みて「あなたが貴くなるのはこの人のおかげだ」と言い、銭鏐を励まして「君の骨相は尋常でない。どうか身を大切に」と言った。そして鍾起に「その人を探したのは何かを望んでのことではなく、ただ自分の術を確かめたかっただけだ」と告げて去った。鍾起はこれ以後、子らが銭鏐と交わるのを許し、しばしば困窮を助けた。
- 銭鏐は弓と矛に長け、驍勇は比類なく、図緯(讖緯・予言)の書にも一通り通じていた。町の山に直径二尺七寸の石があり、鏡のように光っていた。銭鏐がそこに遊ぶと、自分の姿が冕旒をつけた王者の姿に映った。彼はこれを深く秘した。
乾符二年(875年)
- 浙西鎮遏使の王郢が反乱を起こした。石鏡鎮将の董昌が郷兵を募って賊を討つにあたり、銭鏐を偏将に推挙した。銭鏐は王郢を撃破した。このとき二十四歳。
- 董昌が杭州に至ったころ、銭鏐は用向きで余杭を通った。骨相を撫でて占う盲人が龍光橋に来ていたので占いを請うたが、一言も語らなかった。のち帰ってから金を贈って重ねて請うと、盲人は「傍に人はいないか」と問い、腕を引いて嘆じ「天下は乱れる。この時期のうちに再び貴人に会うだろう」と言い残して去った。
乾符五年(878年)
- 群盗の朱直管・曹師雄・王知新らが宣州・歙州のあたりを掠奪した。銭鏐は兵を率いてこれを平定し、その功で石鏡鎮衙内知兵馬使に任じられ、のち鎮海軍の右職に移った。
乾符六年(879年)
- 黄巣が二十万の兵を擁して州県を荒らし、石鏡鎮に迫った。こちらの兵はわずか三百であった。銭鏐は董昌に「賊は数万の大軍で山谷を越えて来るため、旗鼓が離れて先頭と後尾が呼応できない。奇兵で待ち伏せるべきだ」と説き、精鋭二十人とともに草むらに伏せた。黄巣の先鋒が険路を単騎ずつ渡るところを、銭鏐は伏せた弩でその将を射殺した。賊軍が乱れたところを精兵で蹂躙し、数百級を斬った。
- 銭鏐は「これは一度きりの手だ。大軍が来れば防げまい」と言い、兵を八百里という地名の場所へ移した。道端の老婆に「誰か尋ねたら、臨安の兵が八百里に駐屯していると答えよ」と言い含めた。黄巣の軍勢は老婆の言葉を聞き、それが地名とは知らず、「先ほどの十数人にすら敵わなかったのに、八百里も先まで兵がいるのか」と言って、急いで兵を引いて通り過ぎた。都統の高駢は、黄巣が臨安を侵せなかったと聞いて銭鏐を壮とした。
廣明元年(880年)
- 杭州で八都が置かれた。余杭の陳晟、於潜の呉文挙、塩官の徐及、新城の杜稜、唐山の饒景、富陽の文禹、龍泉の凌文挙がそれぞれ数千人を集めて郷里を守り、臨安は董昌が主となり銭鏐がその副となった。
- ほどなく高駢が董昌と銭鏐を広陵に召した。高駢は銭鏐を見て左右に「この男はいずれ爵禄が私を超えるだろう」と言った。久しく留まっても高駢に賊を討つ意思がなく、董昌らは用いられないので辞して帰った。高駢は董昌を杭州刺史、銭鏐を都知兵馬使・太子賓客に推挙した。
- このころ天下は大乱に陥り、董昌は八都の兵を団練してこれを銭鏐に統率させた。
中和二年(882年)
- 秋七月、浙東観察使の劉漢宏が董昌と不和になり、弟の劉漢宥と馬軍都虞侯の辛約に西陵で駐屯させ浙西を狙わせた。銭鏐は八都の兵で討ちに向かった。
- 夜半、星月が明るく渡河できなかったので、銭鏐は川の砂を手にすくって飲み込み「義兵をもって賊を討つ。どうか雲で月を隠して我が軍を渡らせよ」と祈った。まもなく雲霧が立ちこめて暗くなり、渡江して敵の合言葉を盗み取って営を襲い、混乱に乗じて焼き払った。劉漢宥らは敗走した。
- 冬十月、劉漢宏は登高鎮将の王鎮に七万の兵を率いさせ江のほとりに駐屯させた。銭鏐は儒童鎮将の徐靖、浙江都遊奕使の阮結を率い、枚を銜んで夜に渡ってこれを大破した。王鎮は諸曁へ逃げ、劉漢宏が勝手に発した偽の勅書二百余通を獲た。
- この月、唐の朝廷は銭鏐に侍御史を兼ねさせた。
中和三年(883年)
- 春三月、劉漢宏は黄嶺・巌下・貞女の三鎮と山中の洞など計九十三か所に兵を分けて大挙を図った。銭鏐は八都の兵を率いて富陽から攻め、黄嶺を破り、巌下鎮将の史弁と貞女鎮将の楊元宗を捕らえた。
- 夏四月、劉漢宏は自ら兵を率いて諸曁の古剥嶺から亭山・亀山のふもとに駐屯したが、銭鏐がまた撃破した。
- 五月、劉漢宏は何粛・黄珪らに本道の排門軍を率いさせ蕭山・諸曁などに陣を張らせた。銭鏐は迎え撃って一万余人を破り、都虞侯の章公直を生け捕った。
- 冬十月、劉漢宏は弟の劉漢容と辛約・巴立・李万敵らに十万余の兵を集めさせ、西陵から戦船を大量に出して夜襲による渡河を謀った。銭鏐は新沙から漁浦を経て迎え撃ち、将の何粛を斬って蕭山に迫った。
- この月の戊午、銭鏐は自ら劉漢宏と会戦し、午の刻から戌の刻まで戦って大敗させた。劉漢宏は衣を替え料理人の包丁を持って逃げ、追手に追いつかれると「私は料理人だ」と偽り、包丁を示して難を逃れた。
- まもなく劉漢宏は残兵四万を集めて再戦したが、また破られた。弟の劉漢容と将の辛約・譚昇・巴立・李万敵が斬られ、劉漢宏が僭称した淮海招討使の印一顆を獲た。劉漢宏は越州へ逃げ帰った。
中和四年(884年)
- 春、王鎮が婺州刺史の黄碣を捕らえて銭鏐に降った。劉漢宏は将の婁賚を遣って王鎮を殺し代わらせた。
- 夏四月、浦陽鎮将の蔣瓌がふたたび銭鏐の兵を招いてともに婺州を攻め、婁賚を捕らえて帰った。
- このとき唐の朝廷は中使の焦居璠を杭越通和使として遣わし、董昌と劉漢宏に停戦を命じたが、どちらも詔に従わなかった。劉漢宏は天子の使者を殺し、将の朱褒・韓公玫・施堅実らに水軍を望海に駐屯させ、水陸から進撃を図った。
- 秋七月、唐は銭鏐に国子祭酒兼御史大夫・右千牛衛将軍を授けた。
光啓元年(885年)
- 冬十月、唐は銭鏐に検校散騎常侍・右武衛将軍を授けた。
光啓二年(886年)
- 春正月、銭鏐は董昌に「悪を除くには根を絶たねば後患となる。全軍で劉漢宏を討ちたい」と説き、その日のうちに諸都兵馬使の阮結を梅市に、監陣使の銭爽を双童に、遏後使の駱団を平水に、降将使の章可周・唐晟・王公備らを蘭頭に、江海遊奕使の崔則を羊石に配置した。
- 辛亥、銭鏐は平水を出、成及が夜に奇兵を率いて五百里の道を開いた。癸丑、曹娥埭で朱褒らを破り、甲寅、豊山に進駐すると、施実堅らが劉漢宏の右直将張師及を捕らえて降った。丙辰、越州を攻め落とし、劉漢宏は台州へ逃げた。辛酉、劉漢宏の妻・母・弟・甥および一味の史恵・史侃・都虞侯の蔡約を軍門で処刑した。
- 冬十二月、台州刺史の杜雄が劉漢宏を捕らえて送ってきたので、会稽の市で斬るよう命じた。劉漢宏は刑吏を叱って「私は廉察使である。お前たちに殺される身ではない。かつて手に金銭を捧げる夢を見た。私を殺すのは銭公だ」と言い、銭鏐自らの手にかかることを求めた。
- この月、儒童鎮将の徐靖が住民を捕らえ掠奪したので、銭鏐は市で処刑させた。北関鎮将の劉孟安が弟の劉孟宿とともに勝手に府庫を開いて部下に配ったのを銭鏐が責めると、劉孟安はその席で銭鏐を害そうと謀った。銭鏐はただちに斬って晒し、その兵をすべて収めた。
- 越州の諸将は皆、銭鏐を主に推した。銭鏐は固く辞して董昌に譲り、董昌が越州を仮に治めることになった。杭州の人々は改めて銭鏐に董氏の代わりを願った。浙西節度使の周宝は承制をもって銭鏐を権知杭州軍州事兼杭州管内都指揮使とした。まもなく唐は銭鏐に検校尚書を授けた。
光啓三年(887年)
- 春正月、興元にあった唐の皇帝は勅して銭鏐を杭越管内都指揮使・上武衛大将軍・杭州刺史とし、董昌を越州観察使とした。
- 三月、潤州の客司軍将の劉浩が後楼の兵とともに帥の周宝を追い出した。周宝は常州へ逃れ、劉浩らは度支催勘官の薛朗を留後に推した。
- 夏四月、六合鎮将の徐約が蘇州を攻め落とした。淮南では高駢が部下の畢師鐸に幽閉され、大混乱に陥った。
- 五月、銭鏐は東安都将の杜稜、浙江都将の阮結、靖江都将の成及らに常州を攻めさせ、周宝を迎えて帰った。銭鏐は軍礼を整えて郊外に迎え、樟亭駅に住まわせた。かつて周宝が丹陽を治めていたころ、州の人は期限があるといつも「銭が来るのを待て」と言っていたが、これがその予兆に当たったとされる。周宝はまもなく病没した。
- 冬十二月、銭鏐は杜稜を常州制置使とし、阮結らに潤州を攻めさせた。この年、唐は銭鏐に検校戸部尚書を加えた。
文德元年(888年)
- 春正月、わが軍が潤州を落とし、薛朗を生け捕って心臓をえぐり周宝を祭った。劉浩は逃れた。銭鏐は阮結を制置使とし、嘉興県に城を築かせた。
- 三月、唐は銭鏐に検校司空を加え、父の銭寛に威勝軍節度推官・検校尚書を授け、緋魚袋を賜った。
- 秋九月、銭鏐は従弟の銭銶に兵を率いさせ、蘇州の徐約を討たせた。徐約は州の民を総動員して城を守らせ、その顔に「願戦南都」と刺青した。従事軍事衙推の陳佐車は「南都とは国都の称である。杭州はいずれ国を建てるのではないか」と語った。
龍紀元年(889年)
- 春三月、わが軍が徐約を破った。徐約は敗走して海に入り、矢に当たって死んだ。銭鏐は海昌都将の沈粲に蘇州の政務を代行させた。
- 夏四月丁丑、臨安に安衆営を築いた。
- 五月甲辰、潤州制置使の阮結が叛いた兵に辱められて病没した。銭鏐は弟の右驍衛将軍阮綽にその部隊を継がせ、成及を後任とした。成及は叛乱兵をことごとく誅した。
- 秋七月、唐は銭鏐に金紫光禄大夫・検校司空・本州防禦使を授けた。
- 冬十月、唐は給事中の杜儒休を蘇州刺史に任じ、沈粲を制置指揮使とした。
- 十一月、宣州の楊行密が将の田頵・李友らを遣って常州を陥れ、杜稜を(捕らえて)去った。
- 十二月、淮南の孫儒が部下の劉建鋒に潤州を陥れさせ、成及は帰還した。
大順元年(890年)
- 秋七月、李友が蘇州を陥れた。制置使の沈粲は刺史の杜儒休とその兄の杜延休を殺して杭州へ逃げた。銭鏐は備えを怠った罪で沈粲を誅そうとしたので、沈粲は孫儒のもとへ走った。
- 八月、唐は銭鏐に呉興郡開国男を加えた。
- 閏九月、銭鏐は新城を築かせた。包氏山から秦望山までを取り囲み、周囲は五十里余りに及び、林を切り開き険阻を跨いで版築した。銭鏐はしばしば自ら現場をねぎらい、自分でも煉瓦一つを運んだので、人夫は誰もが力を尽くした。
- 冬十二月、唐は使者の高品を遣って官誥を賜り、検校司空・同平章事を加えた。
- この年、孫儒と楊行密が常州・蘇州の間で争い、戦いが絶えなかった。
大順二年(891年)
- 春正月、孫儒が淮南から再び姑蘇に入り、勢いに乗ってわが領を狙った。銭鏐は水軍を出して防ぎ、孫儒は南進を断念した。
- 秋七月、東安鎮に城を築いた。
- 冬十二月、孫儒が蘇州・常州を焼き掠め、宣州に迫って楊行密を包囲した。楊行密は使者を送って救援を求め、銭鏐は兵糧と武具・兵を出して助けた。この月、常州の甘露鎮使の陳可立が本州を占拠したので、銭鏐は兵を出して姑蘇を平定し直した。
景福元年(892年)
- 春二月、銭鏐は従弟の銭銶を蘇州招緝使とした。
- 夏四月、唐は杭州を武勝軍に昇格させ、銭鏐を本軍防禦使とした。
- 六月、銭鏐は出兵して宣州の兵と合流し、宣城で孫儒を破った。楊行密は孫儒を斬って首を都に送り、あわせて沈粲をこちらへ引き渡した。銭鏐はこれを市で処刑した。
- このとき唐は越州を威勝軍に昇格させ、董昌を節度使とし隴西郡王に封じた。越州には裴氏の書楼があり、董昌はその蔵書をすべて取って献上し、諸道採訪図籍使に任じられた。
景福二年(893年)
- 夏閏五月、唐は銭鏐を本軍団練使・蘇杭等処観察処置使とし、彭城郡開国侯に進封、食邑七百戸を与えた。
- 秋七月丁巳、銭鏐は十三都の兵と人夫二十余万を率いて羅城を新築した。秦望山から夾城を経て東は江のほとりに至り、銭塘湖・霍山・范浦に迫る七十里に及んだ。
- 城門は十。朝天門・龍山門・竹車門・新門・南土門・北土門・塩橋門・西関門(涵水門ともいう)・北関門・宝徳門である。
- 兵営は六百に及び、白璧営・宝剣営・青字営・福州営・馬家営・大路営があった。
- 九月、唐は銭鏐を鎮海軍節度使・潤州刺史とした。
乾寧元年(894年)
- 春二月、銭鏐は成及に蘇州刺史を代行させた。
- 三月、唐は銭鏐を光禄大夫・検校司徒から本道営田招討・塩鉄制置発運等使に進めた。
- 夏五月、唐は中使の劉延鉅を遣って開府儀同三司・同中書門下平章事を特授した。
- 六月、唐は中使の賈居蟾を遣って私門に戟を立てることを許した。
乾寧二年(895年)
- 春二月、銭鏐を開国公に進め、食邑千戸とした。
- この月、威勝軍節度使の董昌が反した。董昌は愚かで政務の判断ができず、民の訴訟には賽子を投げさせ勝った方を正しいとした。やがて誅殺をほしいままにし、越州の白楼門外の処刑場では番人が絶えず鬼の泣き声を聞いたという。
- 董昌は軍中の制度を多く改め、中軍に属する者は黄色、外軍に属する者は白の服を着せ、背に「威儀」の二字を印した。器物は大小を問わずすべて「元」の字を冠して呼ばせ、軍中では腕にも同じ字を彫らせた。識者は「元は銭の文字である。結局は銭氏に帰するだろう」と評した。
- 董昌は諸郡に生祠を建てて土馬を置き、「馬がいなないた」「馬が汗をかいた」と偽って告げる者にはみな褒賞を与えた。また王守貞という「王百芸」と呼ばれるほど器用な男に将吏の木偶を彫らせ、その足を長い釘で留めさせて「これで二三百年は倒れずにすむ」と言った。
- 驕りが極まると簒奪をたくらんだ。妖しげな応智・王温や巫女の韓媼らが妖言で董昌を惑わせた。ある老人が偽の童謡を献じ、「聖人の姓を知りたければ千里の草が青々、天子の名を知りたければ日が日の上から生ずる」(董・昌の字解き)と言うと、董昌は絹百疋を与えた。また将士の朱思遠が、夜に天符が降ったと偽り、青い紙に朱の文字で判読できないものを示して、おおむね天命が董氏にあるという意味だと説いた。こうして下級の役人が亀や魚の瑞兆を献じるのが日に百件を下らなかった。
- 董昌は無頼の徒を集め、腕を切り耳を落とさせて「感恩都」と称し腹心とした。牙将の倪徳儒は「昔の童謡に『羅平鳥、四つ目三本足、越の人の禍福を司る』とあり、民間ではその図を描いて祈っている。王のお名前はその図に似ています」と言い、図を出して見せた。董昌は大いに喜んだ。僚佐の都虞候李暢之、掾吏の呉瑶・秦昌裕らも「王はいつも越王になりたいと言っておられるが、いっそ越帝になられては」とけしかけた。
- そこで董昌は自ら皇帝を称し、国号を大越羅平、年号を順天とし、城楼を「天冊の楼」と名づけた。臣下には自分を「聖人」と呼ばせ、中軍・外軍の衣に「帰義」と刺繍させた。僭立に際して年月日時をすべて卯に合わせたのは、古い讖書に「江東の岸の上、重日に生ず」とあり、それを名(昌)で応じたうえ、さらに卯を取って日の出の意に符合させたものである。
- 副使の黄碣が「今、王室は衰えたとはいえ天も人もまだ唐を見捨てていない。大王は田野から身を起こして将相を兼ね、富貴は極まっている。なぜ一族滅亡の計を立てるのか」と諫めると、董昌は人を遣って黄碣を斬らせ、その首を持ってこさせて「この賊は私に背いた。清らかな世で三公にもなれるのに、みずから死を求めるとは」と罵り、便所に投げ込んだ。会稽令の呉鐐が「大王は正しい諸侯であることをやめ、天子を僭称して滅亡を招こうとしている」と言い、山陰令の張遜も「大王は浙東に節を建てて二十年、なぜ李錡や劉闢の真似をするのか」と言うと、董昌は二人とも殺した。婺州刺史の蔣環を宰相とし、銭鏐に書を送って羅平国の位に即いたことを告げた。印文は「順天治国之印」であり、銭鏐を両浙都指揮使に任じた。
- 銭鏐は書を得て賓客を集めて諮り、「董氏は昔わが同郷であり、今は隣藩である。その大功と高位厚禄は私も助けて成らせたものだ。だが今、妖言を信じて甘んじて叛乱を起こした。私は朝廷の将相を受けている以上、兵を挙げて討たねばならぬ」と述べた。まず董昌に「門を閉じて天子となり一族百姓もろとも塗炭に落ちるより、門を開いて節度使のまま終身富貴を保つ方がよい」と書き送ったが、董昌は聞き入れなかった。
- 銭鏐は反乱を朝廷に報じ、自ら兵を率いて迎恩門に至ると、楼を望んで再拝し「董氏には恩がある。にわかには討てぬ」と言い、幕客の沈滂を遣って諭させた。「大王は数州を領し、貴くも富んでもいる。それを一朝にして兵権をひっくり返し臣節を改めては、自ら禍を招き、災いはすぐに及ぶ。今、諸軍を城下に率いてきたのは大王の改悛を待つためである。もし聞き入れられねば天子は激怒し、羽林・黄頭の軍が江を渡って大王の城を襲うだろう。大王が累卵の危うきにあるだけでなく、郷里の人々もみな釜の中に投げ込まれることになる」。
- 董昌は銭二百万で軍を犒い、応智らを捕らえて軍前に送り、自ら処罰を待つと申し出た。銭鏐は応智らを誅して引き返し、改めて事の次第を上表した。このとき越州都指揮使の馬綽と指揮使の駱団が降ってきた。
- まもなく唐の皇帝は銭鏐に董昌討伐を詔し、中使の高品と李重密を遣って軍を慰労させ、董昌の官爵を削奪した。
- 夏四月辛卯、蘇州に雪が降った。乙巳、父の銭寛が没した。唐は祭りを賜り、尚書左僕射を追贈した。
- 六月、唐は銭鏐に検校太傅・彭城郡王・浙江東道招討制置・両浙塩鉄発運等使を授けた。かつて咸通年間、都に望気の術者が「銭塘に王者の気がある」と言ったため、侍御史の許渾と中使の許計に璧を持たせ秦望山の中腹に埋めて気を抑えさせた。使者が帰ると術者は「必ず止められまい」と言ったが、それが今まさに的中した。
- この月、王は董昌討伐の軍を起こした。
- 秋七月、唐は王に起復して雲麾将軍・上金吾衛大将軍・員外置同正員を授けた。
- 八月、董昌は再びわが軍に抗し、淮南の弘農王楊行密に援軍を求めた。
- 九月、楊行密は将の台濛らを遣って蘇州を包囲させ、董昌に呼応した。
- 冬十月、楊行密はさらに安仁義・田頵らにわが鎮戍を攻めさせた。董昌は裨将の陳郁・鍾福を香厳寺に、李蕙・崔温を石候に駐屯させた。王は武勇都指揮使の顧全武、馬歩軍都知兵馬使の王球に兵を率いさせてこれを追い払い、李蕙・崔温らを斬った。
- まもなく董昌は湖州刺史の李師悦を語らって四千余人でわが領域を侵させ、また徐淑に嘉興を包囲させた。王は内衙都虞侯の方密に襲わせたが落とせず、顧全武にその部隊を率いさせて防がせ、烏墩・光福の二砦を破った。大江の砂の道が水かさで平らになり、賊が遊撃兵を往来させられるようになったので、王は顧全武らに「賊がわが江辺を得て甌越と結びつけば手に負えぬ。よく防げ」と命じた。
- 十一月、衢州刺史の陳儒が没し、弟の陳岌が継いだ。このとき顧全武は偏将の孟宝・蔣燔に兵を西陵に駐屯させた。この月、唐は王を従前どおり起復のうえ検校太傅兼侍中とし、食邑千戸を加えた。
- この年、王は胥江の伍子胥を恵応侯に封じるよう奏請した。羅城を築いたとき、江の波が激しく版築が進まなかったが、王が祈ると砂が十五里にわたって盛り上がったので、この措置となった。
乾寧三年(896年)
- 春正月、安仁義が湖州から渡江して董昌に呼応しようとした。王は顧全武と武勇都知兵馬使の許再思に西陵を守らせて防ぎ、安仁義はついに渡れなかった。
- この月、董昌は徐珣・李玄賓らに粛清・四朴・九郷の地を占拠させた。王は顧全武と王球に攻めさせ、徐珣らは降ってきた。董昌はさらに将の湯旧に石城を、袁邠に永寧を守らせた。このとき董昌の鎮遏使の朱威と、賀蘭風招緝使の孫仲殷らがそろって王に帰順し、朱威らは海路でやって来た。
- 二月、王は顧全武と許再思に西陵から石城へ向かわせ、湯旧と遭遇して石城を破った。湯旧らは逃げ帰った。
- 三月、わが軍はさらに余姚を攻め、袁邠と大いに戦った。賊は逃げる者・溺れる者が半ばに及んだ。明州刺史の黄晟は指揮使の梁従晊に兵を率いさせわが軍に呼応した。袁邠は塁を固めて守り、董昌は兵を増して救ったが、顧全武は武勇隊主の劉彦章に要所を断たせ、賊将の徐宣を生け捕り二百余級を斬った。董昌はまた暨陽鎮将の陳郁に南秦了口から富陽・漁浦一帯に駐屯させたが、王は王球らに攻めさせ、陳郁は一党を率いて降った。
- 夏四月、わが軍は袁邠と偏将の潘薦ら計二千余人を捕らえた。王は朱威を改めて永寧鎮使とした。この月、顧全武は進んで越州の城を囲んだ。
- 五月辛巳、董昌は自ら五雲門で戦況を検分し、玉帛を吊るしてわが軍を誘った。顧全武・許再思らが奮って攻め、その一党は大敗した。董昌は呆然として退き、初めて恐れて帝号を捨てた。
- 翌日、王は兵を分けて進攻させた。顧全武を諸軍都虞侯・東面都知兵馬使とし指揮使の孟宝らと五雲門を攻めさせ、王球を右副指揮使として蔣燔らと亭山および申光門を攻めさせ、陳璋を右副指揮使として銭顔と関子門を攻めさせ、許再思を馬軍都虞侯・北面都知兵馬使として昌安門を攻めさせ、駱団を回面都指揮使として迎恩門を攻めさせた。
- 癸未、越城は陥落寸前となったが、そのとき台濛らが姑蘇を陥れ、刺史の成及が捕らえられた。王が顧全武を召して兵を分けて西陵に備えることを諮ると、顧全武は「賊の根本は甌越にある。姑蘇一つを失ったからといって天の討伐を緩めてよいものか。まず越城を落とし、それから茂苑(蘇州)を回復しても遅くない」と進言した。王はこれに従った。
- 乙未、董昌はなお牙城に拠って抗していた。王が「詔を奉じ、大王は致仕して臨安へ帰られよ」と告げると、董昌は牌と印を送って清道坊に移り住んだ。顧全武は上武勇都監使の呉璋に董昌を捕らえさせ、これを斬った。
- 越州が平定されると、王は府庫の金帛を配って将士に賞し、倉を開いて貧民を救済した。また偽の宰相李邈・蔣環ら十数人を斬り、脅されて従った者はすべて赦した。
- 秋八月、唐の皇帝は王に検校太尉兼中書令を授け、食邑千戸・実封百戸を加えた。僭号を除いた功への賞である。供奉官の寧全道を遣って旌節を賜り、中使の韓彝範を遣って宣諭し、越州を授けようとした。王は久しく辞退したので、唐は宰相の王溥を越州に鎮させた。しかし王はふたたび両浙の吏民に上表させ、自分が浙東を兼ね領することを願い出た。
- 冬十月、唐の皇帝は勅して越州の威勝軍を鎮東軍と改め、王を鎮海・鎮東等軍節度使とした。
- 十一月戊子、湖州刺史の李師悦が没し、子の李継徽が継いだ。この月、安仁義が南蕩から残党を率いて東陽を攻めたが、刺史の王壇は塁を固めて守った。
乾寧四年(897年)
- 春正月、王は行軍司馬の杜稜と都監使の呉璋に兵を率いさせ東陽を救わせた。安仁義はさらに睦州を攻めたが、一夜の大風雨に賊軍が驚き乱れて逃げ去った。
- 夏四月、顧全武と王の弟で鎮武勝軍都指揮使の銭鏢、沈夏・陳璋・高遇・許再思らに海路から嘉興を救わせた。諸将はみな慎重に進もうとしたが、顧全武だけが強行軍を主張し、王はこれに従った。一日で嘉興に到着すると、長く包囲されていた城内はわが軍の旗を見て大いに喜び、その日のうちに内外から挟撃して賊の李宗礼と偏将の顧金ら二十余人を捕らえ、勢いに乗って十八の賊塁を破り、賊将の魏約・張宣・楊燔・閻建らと士卒三千余人を捕らえた。嘉興は平定された。
- 顧全武らはさらに駅亭埭で田頵を追った。おりしも落雷で田頵の陣営が焼け、威鎗が折れたため、田頵は呉興を経て逃げた。大水のなかわが軍が追撃し、斬られ溺れた者が数十里に及んだ。
- 六月己酉、王は越州へ赴き鎮東の節鉞を受けた。
- 秋七月庚寅、越州から帰って銭塘で政務を執り、越州を東府と称した。顧全武に蘇州を回復させ、乙未に松江、戊戌に無錫、辛丑に常熟・華亭を落とした。
- 八月、わが軍は崑山に駐屯した。唐は王に起復を勅し食邑千戸を加え、中使の焦楚鍠を遣って鉄券を届けた。券文は乾寧四年(897年)八月四日付で、董昌が鏡水の地で僭号し狂気の悪業に人心を染めたのを、王が凶徒を打ち払い江表を平定した功を称え、忠をもって社稷を守り恵をもって生民を福したと述べ、そのうえで金の板に誓いを刻み、王には九たびの死、子孫には三たびの死を赦し、通常の刑に触れても有司が罪を問えないと定めたものであった。これを史館に付し天下に頒布した。
- この月、唐は胥江の恵応侯を呉安王に封じた。安仁義が江沿いに侵入しようとした夜、驚くほどの怒濤が砂の道をことごとく崩したので、王はその霊験に感じて封爵を請うたのである。
- 九月、湖州刺史の李継徽が州ごと淮南に付こうとしたが、牙将の沈攸がこれを拒んだため、李継徽は出奔した。乙未、王は自ら湖州を巡って李継徽の家族を収容して帰り、湖州は平定された。王は海昌鎮将の高彦を湖州制置使とした。
- 冬十月、淮南は台濛に蘇州を守らせた。十一月己卯、台州刺史の杜雄が没した。
乾寧五年(光化元年・898年)
- 春正月、蘇州救援の軍を出し、淮南の将李近思を生け捕り、千余級を斬り、将の梁琮・張顒らを殺した。淮南の将李簡が五千余人で無錫に駐屯したので、わが軍が攻めて偏将の陳益らを捕らえて帰った。この月、王は越州指揮使の駱団を台州制置使とした。
- 二月、唐の皇帝は勅して鎮海軍を杭州に移した。王の請いによる。また都押衙の董匡らにそれぞれ恩命を授けた。
- 三月、淮南の将周本が蘇州を救援に来たが、顧全武が撃破した。淮南の将秦裴は三千の兵で崑山を落として守った。
- 秋七月、唐は王に検校太師を授け、「定乱安国功臣」の号を賜った。
- 八月、唐は改元して光化とした。
- 九月、顧全武が蘇州を攻め、台濛・李徳誠らは城を捨てて逃げた。こうして蘇州を回復し、望亭で周本を追い破り、進んで崑山を落として将の秦裴を降した。この月、婺州刺史の王壇が将を遣って東陽を攻めたが、王は民を休ませるため使者を送って諭した。
- 冬閏十月、王は嘉興都将の曹圭に蘇州制置使を代行させ、まもなく蘇州刺史とした。この月、王壇が命に背いたので王は軍を出して討った。唐は王に両浙安撫使を兼ねさせ、食邑千戸・実封百戸を加えた。
- 十一月、衢州刺史の陳岌がこちらに二心を抱いて淮南に降ることを請うたので、王は顧全武らに討たせた。
- 十二月、淮南は成及と魏約の交換を申し出、王はこれを許した。かつて陸郢が叛いたとき成及は淮南に捕らえられていたが、これによって帰国した。
光化二年(899年)
- 春正月、わが軍が龍丘で陳岌を大破した。
- 二月、唐は高臨・周道安を遣り、王の本県の石鏡郷を広義郷、臨水里を勲貴里と改め、居所の安衆営を衣錦営とした。あわせて両浙行軍司馬の杜稜以下百二十人に「賛忠去偽功臣」の号を賜った。
- 三月、王壇が淮南に救援を求めた。
- 夏四月、唐は勅して杭州を大都督府に昇格させた。この月、淮南の田頵が行営都指揮使の康儒らを遣って東陽に呼応させたので、王は副指揮使の方密・羅聚らに婺州および蘭渓・義烏などの県へ援軍を送らせた。
- 五月庚戌、康儒が龍丘でわが兵を破り、偏将の王球が捕虜となったが、まもなく釈放されて帰った。
- 秋七月、衢州から帰る淮南の使者がわが軍に殺され、あわせて陳岌が楊氏に送ろうとした地図と州印を捕獲して持ち帰った。
- この年、蕭山県の神である孔大夫を恵人侯に封じるよう奏請した。
光化三年(900年)
- 春正月、淮南の将康儒・徐従皋らが睦州を攻めたので、王は従弟の銭銶に防がせた。
- 夏五月、唐は中使の王金峰を遣って詔を届け、王を南康王に封じ、食邑千戸・実封百戸を加えた。王は上表して辞退した。
- 秋七月、大滌山の天柱観を大修した。
- 八月、唐は王の行軍司馬杜稜に検校太子太保を授けた。庚申、龍が浙江で闘い、その勢いが城郭を過ぎて家屋を壊し、住民を空中に吸い上げて数里先に落とし、死者も出た。この月、わが軍が軒渚で淮南の兵を破って糧道を断ち、康儒らは清渓を通って逃げた。
- 九月、王壇が宣州へ逃げた。辛卯、王は自ら婺州を巡り、浙西営田副使の沈夏に婺州刺史を代行させた。壬辰、東陽鎮将の王永を処刑した。甲午、王は衢州を巡り、陳岌が降ったので浙東安撫副使とし、顧全武に衢州の政務を代行させた。この月、龍が浙江の水中で闘った。
- 冬十月、唐は中使を遣って王の肖像を求め、凌煙閣に掲げた。王は自らの容貌を写して献じた。
- 十一月、劉季述らが唐の皇帝を問安宮に幽閉し、徳王李裕を帝に立て、使者を送って王を東安王に進めようとしたが、王は受けなかった。この月己酉、亡父を臨安県錦北郷清風里に葬った。
- この年、王は鎮海軍の使院(役所)を建てた。
光化四年(天復元年・901年)
- 春正月、唐の皇帝が復位し、勅して供奉官の吐突令鐸を遣って宣諭し、国信を賜った。
- 二月、王は自ら衣錦営を巡り、故老・賓客を大いに集め、山林の樹木にはすべて錦の幕を掛けた。幼いころよく遊んだ大木を「衣錦将軍」と名づけた。指揮使の陳璋を衢州制置使とした。
- 夏四月丁丑、唐は大赦を行い天復と改元した。この日、王は自ら東府を巡った。
- 五月、唐は王に守侍中を授け、彭城王に進め、食邑千戸・実封百戸を加えた。あわせて王の居所である衣錦営を衣錦城に昇格させ、石鏡山を衣錦山、大官山を功臣山と封じた。
- 秋八月、唐は使者を遣って王の子の銭伝瓘に礼部尚書を授け、遥かに邵州刺史を領させた。
- 九月、王は衢州制置使の陳璋を本州刺史とした。壬子、王の母である秦国太夫人水丘氏が薨じた。
- 冬十月、淮南の将李神福らが侵入した。王は顧全武と方密に防がせたが、二人は青山で伏兵に遭って捕らえられた。李神福は臨安に迫り、秦昶が兵を率いて降った。
- 十一月、唐の皇帝が鳳翔に落ち延びた。王はこれを聞いて悲泣し、使者を送って安否を尋ねた。皇帝はこれを喜び、王に御服の夾襖子一領を賜り、その衣の襟に御札を記して下した。
- 十二月、王は李神福と和睦し、李神福は犒いの贈り物を受けて引き揚げた。この月、唐は王に起復して雲麾将軍・上金吾衛大将軍・員外置同正員を勅授した。
天復二年(902年)
- 春正月、閩が使者を送って(秦国太夫人に)祭を致した。
- 三月癸丑から乙卯までの三日間、浙右に大雪が降り一丈に積もった。雪気は煙のようで、味は苦かった。
- 夏四月、淮南が顧全武と方密を返してきたので、王も秦裴を返した。この月、唐は王に食邑千戸・実封百戸を加えた。
- 五月十五日、唐は王を越王に封じた。制文は、王が浙江の霊気と天目の秀を受け、武は民を安んじ乱を定め、文は国を治めるに足り、劉漢宏が金刀の讖に託し董昌が越鳥の妖に借りて僭偽を競ったとき、ひとり憂えて天討を行い朝廷の憤りを雪ぎ、しばしば淮南を挫いて両浙の郡邑を守った功を称えるものであった。そして番君の故事にならい勾践の旧疆を与えて真の王に立てるとしつつ、二藩を制し万乗の車徒を有し生殺与奪の権を握る者は驕り奢りやすいと戒め、「命は常に一定ではない。善であれば得、不善であれば失う」という『書経』の語を引いて、忠義の心を保たねば功名の盛は保てぬと諭した。越王に進封し食邑千戸・実封百戸を加えるというものである。
- 庚戌、温州刺史の朱褒が没し、兄の朱敖が代わった。
- 秋七月、王は自ら衣錦城を巡り、溝渠を整備した。
- 八月丙戌、府城に帰ろうとして将校をもてなしたが、武勇右都指揮使の徐綰は謀反をたくらんで病と称して欠席した。王は不快に思い、徐綰を先に帰らせた。翌日、王が衣錦城を発つと、徐綰は帰るなり乱を起こし、武勇左都指揮使の許再思も兵を出して徐綰を迎えともに叛いた。内城に迫ろうとしたところ、王の子の銭伝瑛と三城都指揮使の馬綽、牙将の陳為らが懸門を下ろして防いだ。
- 王は龍泉に至って変を聞き、急ぎ城北に駆けつけた。牙将の潘長が徐綰と遭遇して二百余級を斬り、徐綰は龍興寺に退いて陣を敷いた。王は微行で徳勝門に至り、牙将の周粛が鍾審に舟で迎えさせたので、江沿いに内城の東北へ回り、城を越えて入った。誰も気づかず、北門の当直の兵は太鼓にもたれて眠っていたので、王は自らこれを斬った。
- ただちに都監使の呉璋と三城都指揮使の馬綽に北門を、内城都指揮使の王栄と武安都指揮使の杜建徽に南門を守らせ、指揮使の顧全武には兵を率いて東府を守らせようとした。顧全武は「東府は心配ありません。徐綰は追い詰められれば必ず田頵を呼ぶでしょう。王は楊公(楊行密)に窮状を告げるべきです」と進言し、杜建徽も「楊氏は王のおかげで孫儒の難を脱した。あの男が報いぬはずがない」と言った。そこで王は顧全武に子の銭伝璙を伴わせ、呉に婚を求めさせた。
- このとき湖州刺史の高彦は子の高渭と指揮使の屠瓌智を援軍に送ったが、徐綰が霊隠山に伏兵を置いたため高渭らは殺された。王は高渭の部下を城南に陣させた。
- 九月、徐綰は田頵を呼んで杭州を攻めさせた。田頵は兵を率いて到着し、客吏の何饒を遣って王に「相公(田頵)は大王に東の越府へ移り、府署を空けて待たれることを願う」と伝えさせた。王は「軍中の叛乱などどこにでもある。公は節帥でありながら逆賊を助けるのか」と答えた。
- やがて田頵は北門の外に陣を張った。王は城に登って弩を射かけ、旗持ちを射抜いた。田頵は城中が大いに鬨の声をあげるのを見て恐れ、営に退き、西北の隅に移って迫った。田頵は夜を狙って梯子や衝車をそろえたが、城中から矢石が雨のように降り、堀に落ちる賊は数知れず、ついに陣を撤して退いた。
- 十一月、田頵は船を整えて渡江し西陵を断とうとしたが、王は副指揮使の盛造と朱郁に大破させた。呉王(楊行密)も田頵を召して「帰らねば人を代わりに宣州に鎮させる」と言った。田頵はついに徐綰・許再思を率いて宣州へ帰った。王は軍を犒う銭一億を贈って送り出した。田頵はわが軍に追われるのを恐れ、王の子の銭伝瓘を人質に取って去った。
- 十二月、浙右にまた大雪が降り、江も海も凍った。この月、温州の裨将丁章が刺史の朱敖を追い出し、朱敖は福州へ逃げ、丁章が郡を占拠した。
- この年、白い烏が安固県の集雲山に棲んだ。朝廷に報じられ、詔によって安固を瑞安県と改めた。
天復三年(903年)
- 夏四月、温州の丁章が木工の李彦に殺され、裨将の張恵が温州を占拠した。この月、婺州に城を築いた。
- 秋七月、睦州刺史の陳詢が叛いて蘭渓を攻めたので、王は指揮使の方永珍らに討たせた。
- 九月、田頵と安仁義が淮南に叛き、呉王楊行密がわが方に救援を求めた。王は方永珍に潤州へ、従弟の銭鎰に宣州へ兵を進めさせて淮南に呼応し、指揮使の楊習を方永珍の代わりに睦州へ置いた。
- 冬十一月、田頵が敗死し、田頵の母が王の子の銭伝瓘を送り返してきた。
- このとき王は虚白堂の跡に亭を建て「八会亭」と名づけた。呉を平らげ越を定めるにあたり、武を講じ計を議した会合がここで八度あったことによる。まもなく「都会堂」と改名した。また設庁の後ろに閣を建て「蓬萊」と名づけた。
天復四年(天祐元年・904年)
- 春正月、唐の皇帝が長安を発った。
- 三月、唐は衛尉卿の許渾を遣って宣諭し、国信を賜った。この月、王の子の銭伝璙とその妻の楊氏、および顧全武が淮南から帰った。
- 夏四月、唐の皇帝が洛陽に至り、大赦して天祐と改元した。王は呉越王への封を求めたが皇帝は許さなかった。梁王朱全忠が執政に口添えし、給事中の鄭祁と刑部員外郎の楊承休を遣って王を呉王に進封した。勅文は、王を一代の偉人・三朝の元老と称え、郷兵を起こして江表を平定し、貢納を欠かさず、天下が乱れるなか浙江は日夜東方から朝廷に向いていると述べ、越の封を移して勾践の旧境をすべて与えるとし、侯服を率いて中朝を戴き、将を選び兵を練り、農を務め粟を積んで、進んでは斉桓・晋文の業に参じ、退いては呉越の地を守れと諭すものであった。呉王に徙封し食邑二千戸・実封二百戸を加えた。
- 秋八月、唐の皇帝が崩じ太子が即位した。皇帝の諡は昭宗とされ、使者が告げに来たので、王は素服して軍門で哀悼した。この月、淮南が徐綰を檻送してきたので、王は心臓をえぐって高渭を祭った。
- 九月壬戌朔、大風が吹き真冬のような寒さとなり、浙東・浙西に大雪が降った。
- 冬十月朔、日食があった。癸酉、大雪が平地で一丈余り積もった。
- 十二月、衢州制置使の陳璋が羅城使の葉譲を殺して叛き、淮南に降った。
天祐二年(905年)
- 春正月、唐は王の子の銭伝瓘に官爵を授けた。この月、わが兵が睦州で陳詢を囲んだ。呉王楊行密は西南招討使の陶雅と閻銍らを遣って新安を押さえさせた。王は従弟の銭鎰と指揮使の顧全武・王球に防がせたが、わが軍は不利となり、銭鎰と王球らが捕らえられた。
- 夏四月、陳璋は睦州の兵と淮南の将陶雅らと合して東陽を攻めた。王は弟の銭鏢に討たせた。
- 秋八月、処州刺史の盧約が弟の盧佶に温州を攻め落とさせ、張恵は福州へ逃げた。王は方永珍に東陽へ援軍を送らせ、合流して賊を討たせた。
- 九月、陳璋と陶雅が東陽を陥れ、わが刺史の沈夏を捕らえた。呉王楊行密は陶雅を江南都招討使・歙婺衢睦観察使、陳璋を衢婺副招討使とした。陳璋はさらに兵を分けて淮南の将許野鶴らとわが暨陽を侵したが、王は楊習に追わせ、陳璋の兵は大敗した。楊習はそのまま東陽を攻めた。
- 冬十月、一角で麟のような蹄をもつ獣が呉興に入った。
- 十一月、王は府門の西に功臣堂を建て、碑を立てて功を記し、賓寮・将校で功臣の名を賜った者五百人を碑の裏に列記させた。
- 十二月、睦州刺史の陳詢が淮南へ逃げ、陶雅が睦州に入って占拠した。
天祐三年(906年)
- 春正月丙寅、唐の皇帝は担当官に日を選んで礼を整え王を冊立するよう命じた。この月、淮南の将陶雅が兵を歙州へ引き揚げたので、わが兵は睦州を回復した。宣州観察使の王茂章が亡命してきたので、王は鎮東節度副使とし、名を景仁と改めさせた。
- 二月辛卯、王は睦州へ赴いた。陳璋は婺州から退いて衢州に拠り、方永珍と楊習らが婺州を取り、進んで衢州を攻めた。
- 三月、浙西営田副使の馬綽に睦州刺史を代行させた。
- 秋八月、陳璋が淮南の将周本・呂師造らを導いて衢州に入ったが、わが軍に追われて淮南へ逃げた。
- 九月、周本らが一党を率いて信州へ帰った。王は方永珍を衢州制置使とした。この月、唐は使臣の王鉅と裴筠を遣って王に呉王の竹冊を授けた。
- 冬十一月乙丑、湖州刺史の高彦が没し、子の高澧が継いだ。唐は王に本道で三代の私廟を建てることを許した。
- 閏十一月、王は弟の銭鏢を婺州制置使とした。
- 十二月、王は行軍司馬の王景仁を上表して推薦し、唐の皇帝は詔して王景仁に寧国軍節度使を領させた。
- この年、睦州の分水県の南新・寧善・新登・広陵・銅峴の五郷を割いて杭州臨安県に属させた。
天祐四年(907年)
- 春三月、唐は勅して衣錦城を安国衣錦軍に昇格させた。王は子の銭伝璙・銭伝瓘に温州の盧佶を討たせた。
- 夏四月、盧佶は水軍を率いて青澳で防いだ。銭伝瓘は「盧佶の精兵はすべてここにいる。正面から戦ってはならぬ」と言い、安固から舟を捨てて間道より温州を襲った。戊午、温州は潰え、盧佶を斬って帰った。王は都監使の呉璋を温州制置使とし、銭伝璙らには兵を移して処州の盧約を討たせた。
- この月、梁王朱晃が皇帝を称し、国号を梁、開平と改元し、上金吾衛将軍の石彦辞と刑部郎中の薛昭序を遣って宣諭した。
- 五月、盧約が処州ごと降った。王は彼を浙江安撫副使とし、指揮使の兪浩を処州制置使とした。この月、梁は金吾衛大将軍の安崇隠を遣って王を呉越王に進封し、食邑二千戸・実封三百戸を加え、「啓聖匡運同徳功臣」の号を賜った。梁の命を拒むよう勧める客もあったが、王は笑って「私が孫仲謀(孫権)になれぬわけがあるか」と言って受けた。鎮海節度判官の羅隠もまた兵を挙げて梁を討つよう勧めた。王は心中その義を認めたが従わなかった。
- 六月、梁は中使を遣って宣諭した。
- 秋七月、梁は勅して王の管内の刺史にそれぞれ官爵を授け、母と妻にも封邑を賜った。
- 八月辛亥、梁は王に淮南節度使・揚州大都督・充淮南四面招討制置使を加えた。
- 九月、梁は鎮東軍の神祠を崇福侯に封じた。王の請いによる。勅文は、鎮東軍の城隍神である龐玉が前朝の名将であり、任地を開いて府署を創建し吏民を安んじた遺愛が今も残ること、また銭鏐が三鎮に位し十臣に冠たる功をもち、その祈りに神が必ず応えることを述べ、崇福侯の号を賜るというものであった。
- 冬十月、梁は王の子の銭伝瓘に金紫光禄大夫を授けた。
- 十二月、江西の危全諷が淮南に敗れ、信州の危仔倡がわが方に救援を求めた。
- この年、千頃院を建て、温州の子城を周囲三里十五歩に築いた。