廃王への恩義と衡山王擁立
- 彭師暠は、黔南溪州刺史の仕然の子である。文昭王の時、仕然は師暠に諸蛮を率いて来降させた。王は溪州を便利な地に遷し、なお仕然を刺史に表して元のようにした。師暠は廃王希廣に事え、強弩指揮使の官にあり、辰州刺史を領した。この時、国人の多くは師暠の獷直(荒々しく率直な性格)を悪んだが、廃王だけは心にこれを憐れみ、待遇に手厚さを加えた。それゆえ師暠は常に廃王のために死のうと思っていた。
- 恭孝王が兵を引いて長沙を攻めるに及び、師暠は時に城に登って望み、入って廃王に白して言った、「武陵の兵は驕り、蛮蜑(異民族)を雑えており、その勢いは破りやすいものです。どうか許可瓊に山の前に陣を敷かせ、臣は歩兵三千を以て巴溪より江を渡り岳麓に趨き、後より夜これを撃たせてください。希萼は坐して禽(とりこ)となりましょう」。廃王はこれを然りとしたが、可瓊は二心があり、師暠と梅山の諸蛮は皆族類(同族)であり、どうして信用できようかと言って、ついにその議を沮んだ。
- まもなく長沙が陥落すると、師暠は槊を投げて死を請うたが、恭孝王はその忠を嘉して、わずかに背を笞打つだけで罷めて民とした。師暠はそこで廃王を瀏陽門外に藳葬(仮埋葬)して帰ったが、内心では実に常に恭孝王が殺さなかった恩を懐いていた。
- まもなく恭孝王は弟の希崇とまた国を争い、恭孝は敗れて捕えられた。希崇は、師暠が王と旧怨があり、しかも兄を殺した名を避けようとする心があると思い、そこで師暠に命じて恭孝王を衡山に幽閉させ、心のままにさせようとした。師暠は嘆いて言った、「留後(希崇)は私に君を弑させようというのか。私はどうしてそのようなことをしようか」。
- 衡山に至ると廖偃がおり、共に恭孝王を護視すること甚だ謹み、いまだかつて人臣の礼を失わなかった。希崇はこれを快しとせず、恭孝王を召して長沙に帰そうとした。師暠はそこで偃とともに王を奉じて衡山王とした。後に唐に帰し、殿直都虞候を授けられて卒した。