十国春秋卷七十三 楚七 列傳 石文德
要約
石文德は連州の人。容貌は醜く背丈も低かったが学を好み博識で、范曄の後漢書の誤りを数百条も摘発するほどであり、識者は「史通も及ばない」と評した。もとは草書・隷書や詩律に巧みではなかったが晋の書帖や殷璠の詩選を独学で模倣するうち群を抜く詩才を身につけ、湘漢の間を遨遊しながら長く名を知られずにいた。文昭王には長く容貌のみで軽んじられ大いに窮悴していたが、士を重んじる南宅王子に見いだされて門下に迎えられたことに王は激怒し庭で辱めて追い出そうとした。しかし端午の宴で献じた艾虎の長篇を学士劉昭禹に絶賛され、さらに秦国夫人の挽詞で「月は湘浦に沈んで冷ややかに」の一句が王を大いに驚嘆させ、水部員外郎を授けられ「儒林」の名を賜るまでになった。玉杯を賭けた長春堂の詩会でも高く評価されたが、これが諸学士の妬みを招き、讒言により融州刺史に左遷された。営建・征討にふける文昭王を諫める上書も行い、危うく怒りに触れかけたが劉昭禹の弁護で罪を免れ、まもなく卒した。晩年は著述に励み『大唐新纂』十三巻を著し、剛介な性格ながら博識として世に認められた。
現代語訳全文
容貌ゆえに軽んじられた詩才
- 石文德は連州の人である。容貌は寝陋(醜く見劣り)で背丈が低かったが、学を酷(はなは)だ好み、墳史(古典・史書)を博覧し、目を経れば忘れなかった。常に范曄の後漢書を読み、その瑕瑾(欠点)数百条を摘み出して弁駁したが、識者はこれを「史通も及ばない」と評した。
- もとより草書・隷書、詩律には巧みでなかったが、ある日、晋の帖数紙を得て、殷璠の詩選を閲するに及び、極力これを摹倣し、久しくして群を抜き、ついに詩に巧みとなった。湘漢の間を遨遊し、名を知られることはなかった。
- 文昭王の時、長沙に屋を借り、しばしば詩を献じて用いられることを乞うたが、王はその容貌が寝陋であることをもって礼を加えなかった。文德はこのため大いに窮悴した。折しも南宅王子という者があり、もとより士を重んじ、これを門下に迎え入れた。王は大いに怒り、庭で文德を辱めて追い出そうとした。
- まもなく端午の宴集に値会し、文德が艾虎(よもぎで作った虎)の長篇を賦したところ、学士の劉昭禹がこれを見て大いに称賛し、王に力言した。王もまたこれを竒とはしなかった。
- 秦国夫人が薨じると、天策学士たちは各々挽詞を撰して進上した。文德もまた十余章を献じたが、その一つに「月は湘浦に沈んで冷ややかに、花は漢宮に散って秋なり」とあった。王はこの詩を得て大いに驚いて言った、「文德はこの才を負いながら、私はただ容貌によってこれを軽んじていた。これでは南宮の小児の方がかえって人を知ると言えるではないか」。そこで挽歌の第一に品定めし、承制して水部員外を授け、たいそう親しく重んじた。その郷を「儒林」と名付けた。
- 後日、長春堂で宴会を催した際、王は玉杯を出して詩を賦する者に賞を与えた。李𢎞臯の詩が先に成ってこれを得たが、文德が続いて進上すると、王はこれをさらに称賛した。王はまた玉蟾滴(蟾蜍形の硯滴)を賚(たまわ)った。これにより諸学士の多くはその才能を妬んだ。
- まもなく讒言に中って融州刺史として出された。当時、文昭王は営建・征討に日を虚しくすることなく、諸州の楩柟(良材)・皮鎧を徴発することは動もすれば千万を数えた。文德は上書して切に諫め、危うく王の怒りに触れるところであったが、劉昭禹が力を尽くして救ったので免れることができた。まもなく卒した。
- 文德は性格が剛介で軽々しく人に合わせず、晩年はとりわけ著述を好み、「大唐新纂」十三巻を撰した。その内容は大いに採るべきものがあり、世は彼を博識であると認めた。