十国春秋卷七十二 楚六 列傳 秦彦暉

秦彦暉

  • 秦彦暉は秦宗権の一族の弟である。はじめ武穆王らと共に孫儒に従って淮南で地を掠めた。その後、王に仕えて親校となった。李瓊が桂州を破った時、彦暉も共に大将として諸軍を統率し、実際に従軍した所での斬獲・捕虜の功はすでに多かった。城都指揮使に改められた。
  • 開平の初め、淮南の将である劉存らが軍を率いて辺境を騒がせたので、武穆王は彦暉に命じて水軍を率いて東に下らせた。彦暉は劉存と越堤で戦い、淮南軍は敗績した。劉存らはたびたび勝てず、武穆王に書を送って和を求めた。王はこれを許そうとしたが、彦暉は言った、「淮南の人は詐りが多く、我が軍を怠らせようとしているのです。信じてはなりません。急いでこれを撃つべきです」。
  • 水を挟んで陣を布くと、劉存は遠くから叫んで言った、「降伏した者を殺すのは不祥です。あなたは自分の子孫のために計らないのですか」。彦暉は言った、「賊が我が境に侵入していながら撃たないなど、どうして子孫のことを顧みていられようか」。兵を指揮して大いに進み、劉存らを捕虜とし、ついに岳州を攻略した。
  • まもなく荆南の兵と会して朗州を攻めた。当時、朗州の帥である雷彦恭は江の水を引いて州城を巡らせて自ら守っていた。彦暉は副将の曹徳昌に壮士を率いさせて夜、水門から入り、内外で火を挙げて呼応させた。彦暉は鉦太鼓を鳴らして大いに騒ぎ立て、門を壊して入った。彦恭は広陵へ逃げ、彦暉はついにその弟の彦雄らを捕らえて連れ帰った。
  • これにより、澧州の向瓌・辰州の宋鄴・漵州の昌師益らはことごとく溪洞の諸蛮を統率して帰順し、数年経たぬうちに湖南はほぼ平定された。彦暉の功が最も大きいものであった。その後、官を重ねて(何官かは不明)卒した。