十国春秋卷七十一 楚五 列傳 希隱

希隱

  • 希隱は武穆王の第(欠)子である。文昭王が立つと、希隱を静江軍節度副使に任じた。この時、恭孝王と嗣王希廣が兵を交え、南漢中宗はその衰えに乗じて密かに内侍使呉懐恩を西北招討使とし、南境に屯させて進取の機をうかがわせた。嗣王もまた指揮使彭彦暉に龍峒に屯させて備えさせた。
  • 折しも恭孝王は衡山から使者を遣わし、彦暉を桂州都監・在城外内巡検使・判軍府事に抜擢させた。希隱は内心これを憎み、密かに人をやって蒙州刺史許可瓊に檄を送り桂州に来させたが、懐恩はそこに乗じて蒙州に進出し、桂管の西南を大いに侵し騒がした。希隱と可瓊はなす術を知らず、ただ互いに酒を飲み向き合って泣くばかりであった。
  • 南漢中宗はそこで希隱に書を送り、「武穆王は全楚を有って富強安靖なること五十余年に及んだが、それは三十五舅・三十舅の兄弟が干戈を交えて自ら相食むことがなかったからだ。ところが今や先人の基業を挙げて北の仇敵に面しようとしている。今、唐の兵がすでに長沙を占拠したと聞く。ひそかに桂林も続いて奪われるであろうと計っている。当朝はかねてより世々与国であり、重ねて婚姻の縁もある。この危機を目にして、救わずにいられようか。すでに大軍を発し水陸ともに進めている。ただ相公舅(希隱)には永く節旄を擁して常に方面に居ていただきたい」と述べた。
  • 希隱はこの書を得て僚佐と協議し、支使の潘玄珪は不可と考えたが、まもなく懐恩の軍が突然城下に至り、希隱は将士を率いて関を斬り開いて全州へ逃げた。嶺北の地はついにことごとく南漢の所有となった。希隱は後に唐に入り、まもなくまた周に帰し、節度行軍司馬を授けられた。