十国春秋卷七十一 楚五 列傳 恭孝王夫人苑氏

要約

恭孝王夫人苑氏は桃源の人で、斉の大夫苑何忌の後裔と伝えられ、賢い行いで知られた。恭孝王(希萼)が朗州の丁壮を徴発して郷兵とし、戦艦を造って弟の治める潭州を攻めようとした際、夫人は「兄弟が相攻めれば、勝っても負けても人に笑われましょう」と諫めたが聞き入れられなかった。まもなく王贇らの朗兵大破により希萼が軽舟で敗走すると、夫人は「禍いが至ろうとしている、私はこれを見るに忍びない」と泣き、井戸に身を投げて死んだ。

武穆王の弟である賨は、沈勇な性格で書史に通じ、もと孫儒配下の百勝指揮使として敗残兵となり呉の武忠王楊行密に捕らえられたが、その出自と忠実な人柄を愛されて厚遇され、両国の商賈往来を通じて融和を進める役目を託されたのち楚へ帰された。武穆王に迎えられて武安節度副使となり、天策府開設に際しては左相に任じられ、唐の明宗からは過分と評されるほどの品秩を与えられた。もう一人の弟存も武穆王の征討にしばしば従って功を積み、桂州刺史李瓊の没後にその地を任され、天策府では右相となり王女の広南への輿入れにも供奉したが、まもなく没した。

現代語訳全文

恭孝王夫人苑氏

  • 恭孝王夫人苑氏は桃源の人である。伝えられるところでは、斉の大夫苑何忌の後裔であるという。夫人は元来賢い行いで知られていた。
  • 廢王の時代、恭孝王は朗州の丁壮を徴発して郷兵とし、戦艦を造って潭州を攻めようとした。夫人は「兄弟が相攻めれば、勝っても負けても人に笑われましょう」と諫めたが、恭孝王は聞き入れなかった。
  • まもなく王贇らが僕射河で朗兵を大破し、恭孝王は軽舟で逃げ帰った。夫人は泣いて「禍いが至ろうとしている。私はこれを見るに忍びない」と言い、井戸に身を投げて死んだ。

武穆王弟賨

  • 賨は武穆王の弟である。沈勇な性格で書史に通じていた。初め淮西で秦宗権に従って盗賊となり、その後は孫儒に仕えて百勝指揮使となった。儒が敗れると、賨は呉の兵に捕らえられ、呉の武忠王(楊行密)は儒の残兵を収めて「黒雲都」と号し、賨をその指揮使とした。
  • 賨は呉の武忠王に従いしばしば功があったが、決して自ら誇ることはなかった。夜に臥せば常に光怪(不思議な光)があり、武忠王は心中これを愛し、従容として「誰の家の子か」と問うた。賨は「馬殷の弟です」と答えた。武忠王は大いに驚いて「お前の兄は貴い身分になったのだから、今、お前を帰してやろうか」と言った。賨は答えなかった。
  • 後日また問われると、賨は泣いて謝し、「私は孫儒の敗残の卒でありながら、幸いにも公のお陰で死を免れました。身を殺してもなお報いるに足りません。湖南は隣境であり、朝夕に殷の動静を聞くことができれば十分です。去りたいとは思いません」と言った。武忠王は嘆じて「昔はお前の容貌を愛していたが、今はお前の心を得た」と言い、さらに「わがために二国の歓を合わせ、商賈を通じ有無を交易して互いに助け合うようにせよ。それもまた我に報いる道である」と言い、厚く礼を尽くして賨を帰した。
  • 武穆王は望外に大いに喜び、賨を表して武安節度副使とした。しばらくして武穆王が天子に入貢することを議した際、賨は「楊王(呉王)は地が広く兵が強くわが郡に接している。彼と好誼を結ぶに越したことはない。大事の時には援けを得られ、小事でも商旅の利を通じることができる」と言った。武穆王は色を作して「楊王は天子に仕えていない。もし朝廷が討伐を加えれば、罪はお前にも及ぶことになる。この議論はやめよ」と言った。
  • 開平末、武穆王が天策府を開くと、賨を左相とした。まもなく朗州留後となり、まもなく永順軍節度使・同平章事を拝命した。天成の初め、武穆王が楚国を建てると、賨を静江軍節度観察使に改めた。唐の明宗は制をもって「お前、賨は名は四輔に尊く、位は三師に冠たる。品秩をさらに昇らせることはもはや難しく、井田をもって増益しがたい」と述べた。当時の人々はこれを過分な言葉だと考えた。

武穆王弟存

  • 存もまた武穆王の弟である。武穆王の征討に従って功を積み、永州刺史に至った。開平中、静江節度使の李瓊が卒した際、武穆王は存に桂州の事を知らせた。まもなく王が天策府を開くと、存を右相に任じ、まもなく永順軍節度使を領した。王女を広南に嫁がせるのに送り届け、その後数年して呉の上高を攻め、俘獲の功を挙げたが、まもなく卒した。