十国春秋十國春秋卷六十七 楚一 武穆王馬殷(字は霸圖)

楚の建国者、馬殷(字は霸圖、?–930年、享年七十九)。許州鄢陵の人で、自ら伏波将軍馬援の後裔と称した。唐末に孫儒・劉建鋒の軍中で勇名を得、建鋒の横死後に張佶から譲られて湖南の主となり、衡・永・道・郴・連の諸州から桂管までを平定した。後梁に貢を修めて楚王に封ぜられ、高郁の献策で茶の専売と鉛錢・鉄錢の鋳造によって国を富ませた。後唐から楚國王に封ぜられて長沙府に宮殿と百官を置き、事実上の開国を果たしたが、晩年は子の希聲が謀臣高郁を殺すなど後継に難を残した。

年表(21件)
  • 乾寧元年894年劉建鋒とともに湖南に入り、潭州を襲って武安節度使の鄧處訥を斬った
  • 乾寧二年895年建鋒が武安軍節度使となり、殷は内外馬歩都指揮使に任じられた
  • 乾寧三年896年建鋒の横死後、張佶に譲られて留後の位に就き、潭州刺史・判湖南軍府事となった
  • 光化元年898年武安留後を経て節度使に進み、楊思遠の衡州と唐世旻の永州を攻め取った
  • 光化二年899年道州・郴州・連州を平定し、湖南をことごとく手中にした
  • 光化三年900年秦彦暉・李瓊が劉士政を降し、桂・宜・嚴・柳・象の五州を得た
  • 天復二年902年唐から同平章事を加えられた
  • 天復三年903年許德勳が江陵を襲って掠め、帰途に岳州の鄧進忠が城を挙げて帰属した
  • 開平元年907年梁への勧進の功により侍中兼中書令に任じられ、楚王に封ぜられた
  • 開平元年907年淮南の水軍三萬を破って劉存・陳知新を捕らえ、岳州を取り戻した
  • 開平二年908年高郁の策で茶の課税と回圖務による交易を始め、国用が足りるようになった
  • 開平二年908年呂師周が嶺南を伐ち、昭・賀・梧・蒙・龔・富の六州を取った
  • 開平四年910年梁から天策上將軍を加えられ、はじめて天策府を開いて弟を左右の相とした
  • 乾化元年911年鉱山を開いて「天策府寶」の銘を持つ天策錢を鋳造した
  • 乾化二年912年梁から武安・武昌・靜江・寧遠等軍節度使・洪鄂四面行營都統とされた
  • 龍德三年923年梁が滅ぶと子の希範を後唐に入朝させ、都統の印と将吏の名簿を差し出した
  • 同光三年925年蜀の滅亡に懼れて致仕を請うたが許されず、鉛錢・鉄錢を鋳て国を富ませた
  • 天成二年927年後唐から楚國王に封ぜられ、潭州を長沙府として宮殿を建て百官を置いた
  • 天成三年928年劉郎洑で荊南軍を大破し、道人磯では呉の苗璘・王彦章を捕らえた
  • 天成四年929年次子の希聲に政事を総轄させたが、希聲は王命と偽って謀臣の高郁を殺した
  • 長興元年930年十一月、薨去。享年七十九。兄弟が順に継ぐよう遺教し、武穆と諡された

出自と唐末の経歴

  • 武穆王は姓を馬、名を殷、字を霸圖といい、許州鄢陵の人である。自ら伏波将軍(馬援)の後裔と称した。
  • 唐の中和年間、忠武決勝指揮使の孫儒と龍驤指揮使の劉建鋒が蔡州に駐屯して黄巣を防いだとき、殷はその軍中にあって勇名を得た。
  • 秦宗權が叛くと孫儒らはこれに従い、宗權は孫儒・劉建鋒に一萬の兵を率いさせ弟の秦宗衡に属させて淮南を経略させた。殷もその軍中にいた。
  • 宗衡が揚州の楊行密を攻めて落とせずにいるうち、汴の兵が宗權を急襲したので宗權は孫儒らを召還した。孫儒は帰りたがらず、宗衡がしきりに促したので、怒って宗衡を殺し、その兵を併せて高郵を取り、行密を追い払った。
  • 行密が宣州に拠ると孫儒は兵で包囲したが長く落とせず、殷と建鋒を近隣の県へ食糧調達に出した。その間に孫儒は戦って敗れ死んだ。
  • 帰るところを失った殷らは残兵七千を集め、建鋒を帥に推し、殷は先鋒指揮使、行軍司馬の張佶を謀主とした。転じて豫章を攻め、虔州・吉州を掠め、ついに十余萬の衆を擁するに至った。

乾寧元年(894年)

  • 湖南に入り醴陵に至った。武安節度使の鄧處訥は邵州の兵を出して龍回関を守らせた。建鋒らが至るとその将の蔣勛が降った。
  • 建鋒は蔣勛の鎧甲を先鋒の兵に着せ、その旗を掲げて直接潭州へ向かった。東門に至ると門番は関の守備兵が帰還したものと思い、門を開けて入れた。建鋒はそのまま府に踏み込み、宴の最中であった處訥を捕らえて斬り、自ら留後を称した。

乾寧二年(895年)

  • 僖宗は建鋒に檢校尚書左僕射・武安軍節度使を授け、殷を内外馬歩都指揮使とした。
  • 蔣勛が邵州刺史の地位を求めたが建鋒は与えず、勛は兵を率いて湘郷を攻めた。建鋒は殷を遣わして邵州の勛を撃たせた。
  • 建鋒は凡庸で部下を統率できず、志を得るや酒に溺れて政務を執らず、しばしば部曲と馴れ合って飲み騒いだ。
  • 軍卒の陳贍の妻に美色があり、建鋒はこれを犯した。贍は怒り、袖に鉄の椎を忍ばせて建鋒を打ち殺し、その喉を断った。
  • 軍中は張佶を帥に推した。佶が府に入ろうとしたところ、馬が突然跳ねて噛みつき、左の腿を傷つけた。当時、殷は邵州を攻めていて帰っていなかった。
  • 佶は諸将に「馬公は勇にして謀があり、寛厚で善を好む。私の及ぶところではない。まことの主だ」と辞退した。諸将は陳贍を殺してその屍を晒し、姚彦章を邵州へ遣わして殷を迎えさせた。

乾寧三年(896年)

  • 迎えの使者が来たのは夜で、殷はためらって出発しなかった。夜明けごろ、黒い身なりで大棒を手にした一人が急ぎ現れ「軍国は内外ともに平安」と告げ、たちまち姿を消した。
  • 殷はこれを吉兆と考え、親しい者に「この行きは福とならぬとも限らぬ」と語り、親従都副指揮使の李瓊を残して邵州攻めを続けさせ、自らはまっすぐ潭州へ赴いた。
  • 到着すると佶は輿に乗って府に入り、座したまま殷の拝謁を受けたが、そのうえで殷を庁に登らせて留後の位を譲り、ただちに帥将・吏に拝賀させた。五月のことである。
  • 秋九月、唐は殷を潭州刺史・判湖南軍府事に任じた。

光化元年(898年)

  • 三月、殷に武安留後を管掌させ、まもなく本軍節度使に進めた。
  • 当時、湖南管内七州のうち、賊帥の楊思遠が衡州、唐世旻が永州、蔡結が道州、陳彦謙が郴州、魯景仁が連州に拠っていた。殷が得ていたのは潭州・邵州の二州のみであった。
  • 五月、姚彦章が衡・永・道・連・郴の五州を取ることを請うた。殷は李瓊・秦彦暉を嶺北七州遊奕使、張圖英・李唐をその副として衡州を攻めさせ、楊思遠を斬った。ついで永州を囲むこと一月余り、唐世旻は逃げて死に、李唐を刺史とした。

光化二年(899年)

  • 李唐を遣わして道州を攻めさせた。蔡結は群蛮を集め隘路に伏兵を置いて迎え撃ち、楚軍を大破した。
  • 李唐は「蛮の頼みは山林だけだ。平地で戦えば我らを破れるはずがない」と言い、風に乗じて林を焼かせた。火光は天地を照らし、蛮兵は驚いて逃げ、道州を抜いて蔡結を斬った。
  • 十一月、再び李瓊を遣わして郴州を攻め、陳彦謙を捕らえて誅し、進んで連州を攻めると魯景仁は自殺した。こうして湖南はすべて平定された。

光化三年(900年)

  • 冬十月、靜江節度使の劉士政は殷が嶺北を全て収めたと聞いて恐れ、副使の陳可璠に兵を率いて全義嶺を守らせた。
  • 殷が士政のもとへ使者を送ったが、可璠は境で受け入れなかった。殷は怒り、秦彦暉・李瓊らに七千の兵で攻めさせた。
  • 兵が全義に至ると士政は指揮使の王建武を秦城に駐屯させて後詰めとした。折しも可璠が民の耕牛を奪って軍を犒ったため民が怨み、楚軍の道案内を買って出て、「西南に馬一頭がやっと通れる小道があり、秦城まで五十里しかない」と教えた。
  • そこで彦暉は李瓊に騎六十と歩兵三百を与えて小道から秦城を襲わせた。夜半に垣を越えて入り王建武を捕らえ、練の帯で縛って可璠の陣に引き出して見せた。可璠が信じないので、その場で首を斬り陣中に投げ込んだ。桂の人々は震え上がった。
  • 李瓊は兵を整えて総攻撃し、可璠らとその兵二千余人を捕らえて殲滅した。秦城以南の二十余の陣塁は風を望んで潰走し、ついに桂管を囲んで劉士政を降した。
  • その属する桂・宜・嚴・柳・象の五州をすべて取り、殷は李瓊を桂州刺史とし、まもなく上表して桂管觀察使を授けた。

天復二年(902年)

  • 春三月、唐帝が李儼を遣わして江淮に宣諭させ、殷に同平章事を加えた。

天復三年(903年)

  • 夏四月、呉王楊行密が使者を送り、梁王朱全忠が跋扈しているので絶交するよう求めてきた。大將の許德勳は「全忠は無道だが天子を挟んで諸侯に命じている。軽々しく絶つべきではありません」と述べた。
  • 五月、荊南節度使の成汭が鄂州の救援に向かった。殷は杜洪を救うと称して許德勳に舟師を率いさせ、澧州・朗州の兵と合わせて隙を突いて江陵を襲い、庚戌に陥れて大いに掠奪して帰った。
  • 帰途、岳州を通ると刺史の鄧進忠が牛と酒を用意して軍を犒い、城を挙げて帰属した。
  • 殷は德勳を岳州刺史とし、進忠を衡州刺史に改めた。

天祐元年(904年)

  • 淮南が殷の弟の馬賨を長沙に送り返してきた。殷は賨を武安軍節度副使に推した。

天祐二年(905年)

  • 楚の兵が淮南を侵したが、淮南牙内指揮使の楊彪に敗れた。

天祐三年(906年)

  • 春三月、淮南の將陳知新が岳州を陥れた。
  • 七月、吉州刺史の彭玕が降ってきた。

開平元年(907年)

  • 梁王朱全忠が名を晃と改めて皇帝に即き改元した。殷は使者を送って貢を修め、また即位を勧める功があった。
  • 夏四月辛未、梁の太祖は殷を侍中兼中書令に任じ、楚王に封じた。
  • 五月、梁は勅して桂州の純化縣を歸化縣と改めた。
  • この月、弘農王楊渥は鄂岳觀察使の劉存を西南面都招討使、岳州刺史の陳知新を岳州團練使、廬州觀察使の劉威を應援使とし、別將の許立應を監軍として、水軍三萬で侵攻させた。
  • 王(馬殷)は恐れの色を見せたが、靜江軍使の楊定真が「我が軍の勝ちです。敵を前に懼れるのは必勝の道です」と祝した。
  • 王は在城都指揮使の秦彦暉に兵を率いて上流を防がせ、水軍副指揮使の黄璠に舟三百を瀏陽口に伏せさせた。
  • 六月、劉存らは大雨に遭って兵を返し、越堤で何度も戦って勝てず、偽りの降伏を申し出る書を送ってきた。王は許そうとしたが、彦暉は信用できないとして急襲した。存らが退却するところへ璠が瀏陽の舟で川を遮って挟撃し、大破した。劉存と陳知新を捕らえ、淮南兵の戦死者は数知れず、戦艦八百艘を獲た。劉威は残兵を率いて逃げた。彦暉はそのまま岳州を取った。
  • 王は劉存と陳知新の縄を解き、長く言葉をかけて慰めたが、二人は「丈夫は死をもって主に報いる。賊に仕えるものか」と罵った。王はただちに斬らせた。
  • この月、王は兵を送って吉州刺史彭玕と合わせ洪州を攻めたが落とせなかった。
  • 梁の武貞節度使雷彦恭が楚の兵と合わせて江陵を攻めた。荊南節度使の高季昌はあらかじめ公安に兵を置いて彦恭の糧道を絶ち、彦恭は敗走し楚兵も退いた。
  • 秋七月、彦恭が岳州を襲ったが、備えがあったため引き返した。
  • 八月辛亥、梁は王に武昌軍節度使兼任・本道招討制置使を加えた。
  • 九月丙申、梁は雷彦恭の官爵を削り、王と高季昌に討伐を命じた。彦恭が荊湖を焼き掠め、淮南に附いたためである。
  • 冬十月、秦彦暉と荊南の將倪可福を遣わして朗州を攻めさせた。彦恭は淮南に降伏を乞い、淮南は將の冷業を昌江に、李饒を瀏陽に駐屯させて援けた。
  • 王は岳州刺史の許德勳を遣わして防がせ、まもなく冷業を鹿角鎮で、李饒を瀏陽の寨で捕らえて帰り、市中で斬った。
  • この年、淮南の將呂師周が亡命してきた。

開平二年(908年)

  • 夏五月、靜江節度使・同平章事の李瓊が没した。王は弟の永州刺史馬存に桂州の事を管掌させた。
  • 乙亥、兵を送って鄂州を攻めたが、淮南の將秦裴に敗れた。
  • この月、秦彦暉が朗州を陥れ、雷彦恭は廣陵に奔った。その弟の彦雄ら七人を捕らえて梁に送った。梁は武貞軍を永順軍と改めた。
  • 澧州刺史の向瓌が降った。瓌は彦恭と気脈を通じていたが、ここに至って帰服し、楚ははじめて澧州・朗州の地を得た。
  • 六月、判官の高郁が、民に茶を北方の商人に売らせその税を取って軍費に充てるよう請い、容れられた。
  • 秋七月、王は梁に対し、汴・荊・襄・唐・郢・復の諸州に回圖務を置き、茶を黄河の南北に運んで絹綿や軍馬と交換し、なお毎年二十五萬斤の茶を貢納したいと奏し、梁主は許可した。
  • これにより領内の民はみな山で茶を摘み、税を算定して戸を募り、邸閣を置いて茶を蓄えた。これを「八牀主人」と称し、年に数十萬の収入があって国用は足りた。
  • 九月、荊南の兵が漢口に駐屯して朝貢の路を遮った。王は許德勳を遣わして撃たせ、兵が沙頭に至ると荊南は和を求めた。
  • また歩軍都指揮使の呂師周を遣わして嶺南を伐たせ、清海節度使の劉隱と十余度戦い、昭・賀・梧・蒙・龔・富の六州を取った。
  • 王は領土が広がると民を休め士を礼遇し、湖南はこうして安定した。

開平三年(909年)

  • 夏六月、危全諷が鎮南節度使を自称して洪州を攻めた。当時、淮南の將劉威がその地を守っていた。全諷は楚に援兵を請い、王は指揮使の苑玫を遣わし、袁州刺史の彭彦章と合わせて高安を囲み全諷を助けさせた。
  • 秋七月、苑玫は淮南の將米志誠・呂師造らと上高で戦って敗れた。
  • 吉州刺史の彭玕が亡命してきた。王は玕を郴州刺史に推し、子の希範に彭玕の娘を娶らせた。

開平四年(910年)

  • 夏六月、王は天策上將の位を求めた。梁は王に天策上將軍を加え、王ははじめて天策府を開き、弟の馬賨を左相、馬存を右相とした。
  • この月、荊南を侵したが油口で敗れた。
  • 呉の水軍指揮使敖駢が赤石で彭瑊を囲んだので、兵を送って駢を撃ち瑊を救い、やがて駢を捕らえて帰った。
  • 冬十二月、辰州の蛮宋鄴が湘郷を、漵州の蛮潘金盛が武岡を侵した。王は昭州刺史の呂師周に衡州の兵五千を率いて討たせた。
  • 寧遠節度使の龐巨昭が容州を、高州防禦使の劉昌魯が高州を挙げて帰属した。王は姚彦章・張可求に兵を率いて迎えさせ、続いて彦章に容州の事を代行させ、昌魯を永順節度副使とした。

乾化元年(911年)

  • 春正月、呂師周が飛山洞に入って潘金盛を襲い、捕らえて武岡に送り斬った。兵を移して宋鄴を撃った。
  • 冬十二月乙卯、梁は王の弟で朗州留後の馬賨を永順軍節度使・同平章事とした。
  • 清海節度使の劉巖が梁の韶州を攻めて陥れ、刺史の廖爽が亡命してきた。王は爽を永州刺史に推した。
  • 癸亥、梁は靜江行軍司馬の姚彦章を寧遠節度副使とし容州の事を代行させた。王の請いに従ったものである。
  • まもなく劉巖が兵を出して容州を侵し、王は都指揮使の許德勳に桂州の兵で救援させたが、彦章は守り切れず、巖は容州を取り、さらに高州も取った。
  • このころ鉱山を開いて天策錢を鋳造した。銘は「天策府寶」、銅質は厚く、径一寸七分、重さ三十銖二絫であった。

乾化二年(912年)

  • 春二月、辰州の蛮宋鄴と漵州の蛮昌師益が衆を率いて降った。王は鄴を辰州刺史、師益を漵州刺史とした。
  • 夏四月癸丑、梁は王を武安・武昌・靜江・寧遠等軍節度使、洪鄂四面行營都統とした。
  • 甲戌、梁主は楚と嶺南が交戦していると聞き、右散騎常侍の章戩らを潭廣和叶使とした。
  • 六月、梁の郢王朱友珪が主君の朱晃を弑して自立した。
  • 冬十一月、呉の將陳璋が岳州を襲い、刺史の苑玫を捕らえた。王は水軍都指揮使の楊定真を救援に送った。璋はさらに荊南を攻めた。呉は楚が救援に向かうのを恐れ、劉信に江・撫・袁・吉・信の五州の兵を率いて吉州に駐屯させ、璋の後詰めとした。

乾化三年(913年)

  • 春正月、呉の陳璋の兵が帰還するとき、楚の兵は荊南の兵と江口で合流して迎え撃ったが、璋は舟を並べて夜のうちに通過し、追いつけなかった。
  • 三月、梁の均王朱友貞が賊の友珪を討ち、友珪は誅された。友貞は大梁で位に即き、名を瑝と改めた。
  • 秋八月、姚彦章が呉の鄂州を侵した。呉は池州團練使の呂師造を水陸行營應援使としたが、到着前に楚軍は包囲を解いて帰った。
  • 冬十月、南平王劉巖が婚を求め、これを許した。

乾化四年(914年)

  • 夏四月、呉の袁州刺史劉崇景が州を挙げて帰属し、許貞が兵を率いて援けた。呉は柴再用・米志誠に討伐させた。
  • この月、岳州都指揮使の王環が呉の黄州を襲い、その刺史の馬鄴を捕らえた。
  • 五月、呉の柴再用らが萬勝岡で劉崇景を破り、崇景は逃亡した。許貞は敗れて帰り、袁州も再び失われた。

貞明元年(915年)

  • 秋八月、南平王劉巖が妻を迎えに来た。王は弟の永順節度使馬存を遣わして娘を廣南へ送らせた。
  • 冬十一月、梁が改元した。この年、梁主は名を瑱と改めた。

貞明二年(916年)

  • 冬十二月、晉と通好し、晉もまた使者を送って来聘した。

貞明三年(917年)

  • (月次は原文欠)王は弟の馬存を遣わして呉の上高を攻め、捕虜を得て帰った。

貞明四年(918年)

  • 秋八月、呉軍が虔州を攻め、防禦使の譚全播が援軍を乞うた。王は張可求に一萬を率いて救援させたが、呉の劉信が將の張宣に三千の兵を与えて夜に古亭の可求を襲わせ、楚軍は敗れた。
  • この月、梅山の蛮が邵州を侵したが、守將の樊須が撃退した。

貞明五年(919年)

  • 夏五月、王は兵を出して荊南を攻めた。荊南は呉に救援を求め、呉は鎮南節度使の劉信に洪・吉・撫・信の歩兵を率いさせ瀏陽から潭州を侵させ、武昌節度使の李簡に水軍を率いさせ復州へ向かわせた。
  • 劉信らが潭州の東境に至ると、楚軍は荊南の囲みを解いて引き揚げた。李簡は復州に入り知州の鮑唐を捕らえた。

貞明六年(920年)

  • 十二月、呉越王錢鏐がその子の錢傳璛のために婚を求め、これを許した。

龍德元年(921年)

  • 夏五月丙戌朔、梁が改元した。
  • 秋七月、掌書記の李峴・馬匡に命じて娘を呉越へ送らせた。
  • この年、辰州・漵州の蛮が侵入し、姚彦章が討ち平らげた。

龍德二年(922年)

  • (月次は原文欠)はじめて永州・道州・郴州などの民から丁錢・絹・米麦を徴収した。

龍德三年(923年)

  • 夏四月己巳、晉王李存勗が魏州で皇帝を称し、国号を大唐、改元して同光とした。
  • 冬十月朔、日食があった。唐主が大梁に入り、梁は滅んだ。
  • 王は子の牙内馬歩都指揮使希範を入朝させ、洪鄂行營都統の印を返上し、本道の将吏の名簿を差し出した。
  • 唐主が洞庭湖の広さを問うと、希範は「車駕が南巡されれば馬に水を飲ませるほどのものです」と答え、唐主は大いに喜んだ。そしてその背を撫でて「かねて湖南は必ず高郁に乗っ取られると聞いていたが、これほどの子がいるなら高郁に何ができようか」と言った。郁は楚の謀臣であり、唐は楚の爪牙を除こうとして、わざと流言を流して離間したのである。
  • この月、桂州の歸化縣を再び純化縣に戻した。
  • この年、唐の廟諱を避けて岳州の昌江縣を平江縣と改めた。

同光二年(924年)

  • 夏四月乙亥、唐は王に尚書令兼任を加えた。
  • 冬十月、羅浮の柑子を唐に献じた。また使者を送って唐主の万寿節を祝い、銀の龍鳳陥花漆浴斛一具、盤龍の御衣、龍鳳蹙金の帯、龍鳳の矢筒、龍鳳朱背の弓と紅糸の弦、金鍍の頭矢を各一副、白金一千鋌を献じた。

同光三年(925年)

  • 冬十一月、王は蜀が滅んだと聞いて大いに懼れ、上表して致仕を求めた。その大意は「すでに衡山のふもとに隠退の地を用意しました。印綬を返上して余生を保ちたい」というものであった。唐主は璽書で慰労し、優詔をもって許さなかった。
  • このころ王は関所や市に税を課さなかったので、四方の商旅が噂を聞いて集まった。
  • 湖南はもともと鉛と鉄を産したので、都軍判官高郁の策を用いて鉛錢を鋳造し、銅錢一に対して十の値とした。
  • ついで鉄錢を鋳た。周囲六寸、銘は「乾封泉寶」で、九文をもって一貫とし、一を十に当てた。
  • これらは領内で流通したが、商旅が境を出れば使いようがないので、他の貨物に換えて去った。そのため本土の余剰物資で天下の百貨と交換でき、国は富裕になった。
  • また湖南は養蚕をしなかったので、高郁は王に勧めて納税者に錢の代わりに絹を納めさせた。これによって機織りが大いに盛んになった。

同光四年・天成元年(926年)

  • 夏四月、唐主李嗣源が立って天成と改元した。王は使者を送って貢を修め、あわせて即位を祝した。唐は王に守尚書令を加えた。

天成二年(927年)

  • 春正月癸丑朔、唐主が名を亶と改めた。
  • 三月、王は唐の兵と合わせて荊南を伐ち、都指揮使の許德勳を岳州に駐屯させた。
  • 夏五月丁卯、唐は王に鞍馬と玉帯を賜り、行営に糧を送るよう命じたが、王はすぐには詔を奉じなかった。
  • この月、中軍使の史光憲を唐に入貢させた。唐主は王に駿馬十頭と美女二人を賜ったが、道が江陵を通ったとき、南平王高季興が光憲を捕らえてその品を奪った。
  • 六月、王は行臺の設置を請うた。丙申、唐は王を楚國王に封じた。唐の有司は国王を封じる礼の規定がないとして、三公の儀にならって竹册を用いるよう請うた。
  • 秋八月、唐の册礼使である尚書右丞李序が潭州に至った。序は節を持し、朝廷が朱書の御札で、自ら国を開き臺を立て、承制して官属を置き、天子の半分の儀仗を用いることを許すと伝えた。
  • この月、王ははじめて開国し、潭州を長沙府として宮殿を立て百官を置いた。すべて天子の制に倣いながら名称を少し変え、翰林學士を文苑學士、知制誥を知辭制、樞密院を左右機要司と称し、臣下は王を「殿下」と呼び、命令を「教」と称した。
  • 弟の馬賨を靜江軍節度使、子の希振を武順軍節度使、次子の希聲を武安軍節度副使・判長沙府とし、姚彦章を左丞相、許德勳を右丞相、李鐸を司徒、崔穎を司空、拓跋恒を僕射、馬珙を尚書、張瑶・張迎を機要司の判官、潘起を吏部侍郎、何致雍を戸部侍郎、黄損を兵部侍郎とした。
  • 領内の官属はすべて「攝」を称し、ただ朗州・桂州の節度使だけは先に任命してのちに勅命を請う形とした。
  • この年、三代に尊諡を奉り、曾祖の馬筠を文肅、祖父の馬正を莊穆、父の馬元豐を景莊とし、長沙に三廟を立てた。

天成三年(928年)

  • 春二月丁丑朔、日食があった。
  • 三月、王は岳州に行き、六軍使の袁詮・副使の王環と子の監軍希瞻に兵を率いさせて荊南を攻め、劉郎洑でその軍を大破し、進んで江陵に迫った。南平王高季興は和を請い、史光憲を送り返した。
  • 王は副使の王環がすぐに荊南を取らなかったことを責めたが、環は「江陵を残して防壁とすべきです」と述べ、王は喜んだ。
  • この月、水軍を大挙して漢(南漢)を攻め封州を囲んだが、漢の將蘇章に敗れて退いた。
  • 夏四月、呉の右雄武軍使苗璘と靜江統軍の王彦章が岳州を侵した。王は許德勳に君山で防がせ、丁亥、道人磯で呉兵を破り、璘と彦章を捕らえて帰った。
  • 五月、呉が使者を送って和を求め、王は璘と彦章を呉に返した。
  • 六月、唐は王に荊南討伐を詔した。王は許德勳を遣わして攻めさせ、決勝副指揮使の廖匡齊が陣中で高從嗣を斬った。翌日、南平王季興は和を請うた。
  • 秋九月、荊南が白田で楚軍を破り、岳州刺史の李廷規を捕らえて呉に献じた。
  • 冬十二月、南平王高季興が薨じ、呉はその子の從誨を荊南節度使とした。

天成四年(929年)

  • 春三月、王は次子の希聲に政事を管掌させ、内外の諸軍事を総轄させ、先に行って後から報告する権限を与えた。
  • 夏四月、領内に教を下し、銅錢一を錫錢百に相当させた。
  • 丙午、王環が石首で荊南の兵を破った。
  • 秋七月、王子の希聲が王の命と偽ってその臣の高郁を殺した。
  • 八月、唐主は中書門下に勅し、将相を任命する勅牒には呉越王錢鏐と王(馬殷)の官位を連署しないよう定めた。

長興元年(930年)

  • 冬十月、王は病臥し、使者を唐に遣わして子の希聲への譲位を請うた。唐は王がすでに没したのではないかと疑い、辛亥、王子の希聲を起復武安節度使兼侍中とした。
  • 十一月己巳、王は薨去した。享年七十九。
  • 遺教として諸子に兄弟が順に位を継ぐよう命じ、祠堂に剣を置いて「我が命に背く者はこれで斬れ」と言い残した。
  • 諸将は兵を出して四境を守らせてから喪を発するよう議したが、兵部侍郎の黄損は「君を喪っても後継の君がある。何の備えが要ろうか。隣道に使者を送って死を告げ嗣立を称するのが礼だ」と述べた。
  • 唐主は詔して「馬殷の官爵はいずれも高く贈るべきものがない。武穆と諡すべし」とした。
  • 翌年十二月庚申、衡陽の上潢に葬られた。

史論

  • 国家の興隆は、武勇ある師と有能な臣の力に拠らずしてあり得ようか。武穆王は行伍の中から身を起こし、劉建鋒が先駆けとなり張佶が推挙した。これはもとより天の幸運によるところがある。
  • そのうえ李瓊の驍悍、高郁の謀略、許德勳の威断、秦彦暉の果毅、王環の智深く勇沈着なこと、拓跋恒の慷慨で率直なことなど、いずれも一代の将相の才であった。彼らが鱗に攀じ翼に附いてともに覇業を開いた。
  • こうして湘潭に拠り桂嶺にまたがり、南は柳州・連州に至り、北は江漢を震わせた。もし渤海(南漢)が門戸に迫り彭城(呉)が隣に近接していなければ、一方の大勢が成っていたであろう。
  • しかるに家業を継ぐ人材がなく、まさに「群れの馬が飼葉桶を争う」という言葉のとおりとなり、功臣は冤罪に死に国も衰えていった。後世に余沢を垂れるという点で、武穆王には恥ずべきところがある。