十国春秋卷六十二 南漢五 列傳 黄損

要約

黄損、字は益之、連州の人。若くして大志を抱き静福山に隠棲して学問は該通をもって長じ、とりわけ詩賦に工みであった。陰符・鬼谷の言に類する『三要』三書を著し、梁の初め進士挙に応じてこれを公卿に投じると「王佐の才」と評された。

龍徳二年、進士第に登ったが、嶺南は中原と隔絶していたため汴には入らず帰郷した。すでに高祖が嗣立していたところへ十策を献じて登用を求め、権貴を批判する内容も多く含まれ衆に疾まれた。年を経て永州団練判官を授けられ、累進して尚書左僕射に至り、高祖が湖南の諸州を取った策はことごとく損の建策から出たものであった。

高祖が南薫殿を建て龍柱に工巧を極めさせ、工匠を次々処刑したことを損は極諌して意を害した。宰相が欠けた際、群臣は多く損を推したが、高祖は用いなかった。まもなく足の病を得て退隠し、詩酒を楽しんで没した。一説には、ある夕べ姿を消し、三十二年を経て突然帰り詩を題して出て行き、人々は神仙になったと考えたという。

若い頃、桑維翰・宋齊邱と親しく、五老峰で老いた叟が二人には「善き死を得ない」と告げ、損にだけ「隠居すべきだ」と語り、後にそのとおりになったという逸話が伝わる。鄭谷、僧齊己とともに近体詩の格式を定め、著作に『桂香集』がある。史論では、才の大きさに見合わぬ境遇を惜しむ。

現代語訳全文

黄損

  • 黄損、字は益之、連州の人である。若くして大志を負い、静福山に棲隠して俗と接することが少なかった。学問は該通をもって長とし、とりわけ詩賦に工み、佳山水に遇えば留題ほとんど遍く、自ら学ぶところがまだ広くないとして囊を擔って洞庭の名勝に游び、天下の士と交わりを結び、意は豁如(心が広々としたさま)としていた。かつて三書を著し、陰符・鬼谷の言に類し、号して「三要」といった。梁の初め進士挙に応じ、あまねく三書を公卿の間に投じ、識者は「これは王佐の才である」と評した。
  • ほどなく龍徳二年、進士第に登り、京師より帰ったが、嶺南は中朝と隔絶していたためついに汴に入らなかった。家居しているうちに高祖がすでに嗣立しており、頗る親任を加えられた。損は十策を献じ幕府に居って自ら効を効そうと乞い、その中間で多く権貴を指切したため、衆に疾(にく)まれた。年を踰えて永州団練判官を授けられ、累進して尚書左僕射に至った。高祖が湖南の諸州を取ったのは、その策がみな損より出たものである。
  • まもなく高祖は南薫殿を建て、沉香を彫って龍柱とし工巧を極めさせたが、意に叶わない少しのことでも輒(すなわ)ち工匠を誅すること前後十余人に及んだ。損は極諌してこれに忤(さから)い高祖の意を害した。折しも宰相が欠け、群臣は多く損を推したが、高祖は左右に「我はこの老いぼれの狂を殊に喜ばない」と語った。ほどなく足疾に嬰(かか)り、退いて永州北の滄塘湖のほとりに居り、詩酒をもって自ら娯しみ、ついに病んで卒した。あるいは一夕、遁れ去ってその存亡を知る者がなかったともいう。子や孫は象を肖って(そっくりに似せて)これに事えたが、三十二年を越えて損は忽然として家に帰り、筆を索(もと)めて詩を題してから出て行き、人はみな神仙となったのだと思ったという。
  • これより先、損は廬山で学び、桑維翰・宋齊邱と友善であった。毎に天下の事を論じては、二人は自らこれに及ばないとした。かつて同じく五老峰に游び、盤石の上でしばらく憩っていたところ、老いた叟が長嘯して至り、維翰を指して「公は宰相の位に当たるが、しかし狡(こう、狡猾)なれば其の死を得ないだろう」と言い、齊丘には「(宰相に)至るがしかし忍(にん、酷薄)なれば其の死を得ないだろう」と言い、独り損には「子には道気がある、隠居すべきだ、もし富貴を求めれば偏方の一名宦(地方の一官職)を過ぎないだろう」と語った。後、ついに叟の言のごとくとなった。損は常に都官員外郎の鄭谷、僧の齊己とともに近体詩の諸格を定め、湖海の騒人(詩人)に宗(そう、模範)とされた。『桂香集』若干巻、『射法』一巻がある。

史論

  • 論じて曰く、用拙は天祐の号を遵うことを欲し、定保は建国の謀に与らず、傑は星術を口にすることを恥じ、羲和(天文官の祖)の中に溷(まじ)って迹を晦ましたその矯矯(きょうきょう、抜きん出たさま)たる風はいずれも嘉すべきものがある。趙損は国鈞を継秉(けいへい、政権を執ること)したが長くはその事を保てなかった。黄損は才は大きいが遇(境遇)は嗇(けち、恵まれず)で、その能を展べることができなかった。惜しいことである。