十国春秋卷六十二 南漢五 列傳 劉濬

劉濬

  • 劉濬、字は伯深、その先は滑州胙の人である。父の崇望は唐の昭宗に相たり、世父(伯父)の崇龜は大順の時、出て清海軍節度嶺南東道観察処置等使となった。濬は崇龜に従って広州に流寓し、これによって籍を占(し)めた。烈宗が畨禺(番禺)に拠ると、濬を辟して幕府に居らせ、議論には多く商定するところがあり、周傑らとともに賔客となった。
  • 高祖が即位すると、宗正卿兼工部侍郎を拝した。乾亨中、高祖は潮州で兵を練り閩を侵そうとしたが、濬は楊洞潛にこれを語り力めて諌沮したものの、高祖は聞き入れず兵を引いて民を侵し汀漳の境上に屯したが、閩人に敗られて帰った。大有九年、洞潛がすでに病死すると、そこで濬を擢んでて中書侍郎同平章事とし、これに代えた。濬は在位中は清簡で、高祖に民を養い兵を息めることを勧め持した。子孫は広南において多く顕達した者がある。

史論

  • 論じて曰く、五季の時、中原は擾攘するも、独り嶺海のみ承平で小しく安んじ、民は兵を受けなかった。光裔・洞潛の功が居多である。殷衡は衛公(李徳裕)の後裔で、覇主を左右して咎もなく誉もなかった。曙・澤は文采をもって顕われ、濬は清執をもって称され、名声は百粤(嶺南)に施された。これらもまた名臣の選と言うべきであろう。