越王𢎞昌
- 𢎞昌は高祖の第五子である。大有の初め、越王に封ぜられ、人となり孝謹で知識があった。高祖はこれを絶えて憐愛した。高祖が病に臥したとき、雍王・康王の二王はすでに早く亡くなっていた。殤帝は次序として立つべきであったが、高祖は右僕射の王翷を召して語り、殤帝および中宗の小字を呼んで「夀雋(殤帝の小字)は長じてはいるが、いずれも我が事を任せるに足りない。ただ𢎞昌のみが我に類(に)ている。これを立てたいが、いかんせん我が子孫は不肖で、後世は鼠が牛角に入るように次第に小さくなっていくであろう」と言い、そのまま泣いて歔欷(すすりな)いた。王翷はそこで𢎞昌を太子に立てる謀をしたが、議はすでに定まりながら蕭益の言を用いてこれを止めた。
- 殤帝が嗣位するに及び、驕淫にして徳を失い、左右をしばしば無罪のまま死なせた。𢎞昌はしばしば諌めたが聞き入れられず、まもなく劉思潮らに弑された。𢎞昌はそこで兵を率いて中宗を寝殿に迎え、擁戴の功によって太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥知政事を加えられた。まもなく中宗は諸弟をことごとく誅殺しようと謀ったが、𢎞昌が賢明で衆望を得ていることを特に忌んだ。乾和二年、𢎞昌を遣わして襄帝陵を海曲に祠らせ、昌華宮に至らせると、人にその不備に乗じさせてこれを斃させ、盗賊が殺したと聞こえさせた。