十国春秋十國春秋卷六十一 南漢四 后妃・宗室・公主列傳
収録される人物
- 后妃の部に、武皇后韋氏、段氏、高祖皇后馬氏、太妃趙氏、中宗の麗姬李氏、李蟾妃、後主貴妃李氏、美人李氏(および宮人素馨)、波斯女、盧瓊仙を立てる。
- 続いて高祖の子(雍王耀樞・康王龜圖・越王弘昌・齊王弘弼・韶王弘雅・鎮王弘澤・萬王弘操・循王弘杲・恩王弘暐・高王弘邈・同王弘簡・益王弘建・辨王弘濟・貴王弘道・宜王弘照・通王弘政・定王弘益)、中宗の子(桂王璇興・荊王慶興・禎王保興・梅王崇興)、後主の子(守節・守正・守素・守通)、烈宗の女(増城公主)を載せる。
武皇后韋氏
- 唐の丞相韋宙の従女(姪)。韋宙が南海に鎮したとき、代祖(劉安仁の子・劉謙)は小校であったが器量が並外れていたので、韋宙は彼女を娶せようとした。
- 韋宙の夫人は貴賤が釣り合わないとして幕僚に諫めさせたが、韋宙は「この人物の風貌は尋常でない。いずれ我が子孫が彼を頼ることになろう」と言い、ついに彼女を代祖に嫁がせた。
- 后は烈宗を生んだが、聖武皇帝(代祖)の側室段氏が外の住まいで高祖を生んだ。后はもとより嫉妬深く、これを聞いて怒り、剣を中門に伏せ置いて赤子を連れて来させ殺そうとした。家人は隠しきれず連れて行った。
- ところが子を見るなり動悸がして剣が地に落ち、しばらくして「これは我が家の宝だ」と言った。そして段氏を殺し、高祖を自分の子として養った。
- 后ははじめ(国名は原文欠)国夫人に封ぜられ、乾亨初年に武皇后を追尊された。
段氏
- 高祖の生母。武皇后が高祖を自分の子として育てるため段氏を殺し、その事実を隠した。
- 代祖が段氏を葬ったとき、篆文で「隱台巖」と刻まれた石版を得た。そこでこれにちなんで諸子の名を付けた。
高祖皇后馬氏
- 楚の武穆王(馬殷)の女。貞明初年、高祖が楚から迎え、楚は王弟の馬存に送らせ、手厚い礼をもって遇した。
- 后が嶺南に嫁すと、高祖は乾亨と改元して越帝を称し、后を越國夫人に封じた。翌年に国号を漢と改め、乾亨三年に皇后として冊立した。
- 大有七年(934年)に薨去。
太妃趙氏
- 殤帝の生母。すぐれた容色があり、高祖に仕えて寵を独占した。
- 大有年間に昭儀に進み、殤帝が帝位を継ぐと皇太妃に尊ばれた。
麗姬李氏
- 中宗の寵姫。内侍監の許彦真と内外呼応して権をふるった。
- のち彦真がこれによって身を滅ぼしたことは、許彦真の伝に詳しい。
李蟾妃
- 事跡(原文欠)。格別の寵を受けた。
- 南海に蘇氏の園という幽邃な名園があった。(原文欠)蟾妃を伴って微行し、ここに立ち寄って緑の芭蕉の林で酒を酌み、芭蕉の葉に大書して「扇子仙」と記した。
- 後世の人はその跡に亭を建てて故事を伝え、扇子亭と名づけたという。
後主貴妃李氏
- 宦官李托の養女。後主は李托の二女を後宮に納れ、長女を貴妃に冊立した。国政はすべて李托に伺いを立ててから行われた。
美人李氏(および宮人素馨)
- 美人李氏も李托の養女。後主は李托の長女を貴妃に立てたのち、その次女を美人の職に充てた。姉妹そろって寵を受け、宮中では栄華の極みと称された。
- 同じころ宮人の素馨が容色によって進んだ。白い花を挿すのを好んだので、その花を素馨花と呼ぶようになった。
波斯女
- 姓名は伝わらない。色黒で肉づきよく、賢く、あでやかさは人並みはずれ、淫を好む性であった。後主は深く寵愛して「媚豬」の名を与えた。
- 後主は放縦きわまりなく、方士に媚薬を求めて淫らな戯れにふけった。さらに無頼の少年を選んで宮婢と組ませ、衣を脱がせて人前で交わらせ、波斯女を伴って見物して楽しみ、これを「大體雙」と称した。ついにこれによって国を亡ぼした。
盧瓊仙
- もと中宗の宮人。乾和年間に黄瓊芝とともに女侍中となり、朝服・冠帯を着けて政事の裁決に参与した。
- 後主が位を継ぐと瓊仙の位を才人に進め、朝政を瓊仙に委ねた。後主が可否を検討するといっても、すべて瓊仙が指図するままであった。
- 瓊仙は女巫の樊胡子、宦官の龔澄樞らと内外で結託して不正をはたらき、朝臣は員数を埋めるだけの存在であった。
高祖の子たち
雍王耀樞
- 高祖の長子。大有五年(932年)に雍王に封ぜられ、まもなく薨去した。
康王龜圖
- 高祖の次子。大有五年に康王に封ぜられ、やはり早くに薨去した。
越王弘昌
- 高祖の第五子。大有初年に越王に封ぜられた。孝順謹直で見識があり、高祖は格別に愛した。
- 高祖が病臥したとき、雍・康の二王はすでに没しており、順序からいえば殤帝が立つべきであった。高祖は右僕射の王翷を召し、殤帝と中宗の幼名を挙げて「壽・雋は年長だがいずれも我が事を任せるに足りぬ。弘昌こそ我に似ている。彼を立てたいがどうか。我が子孫が不肖であれば、後世は鼠が牛の角に入るように次第に窮まっていくだろう」と語り、涙を流してすすり泣いた。
- 王翷は弘昌を太子に立てる議を進め、いったんは決まったが、蕭益の意見によって取りやめとなった。
- 殤帝が位を継ぐと驕り高ぶって淫らに徳を失い、側近も罪なくして殺された。弘昌はしばしば諫めたが聞き入れられず、やがて殤帝は劉思潮らに弑された。弘昌は兵を率いて寝殿に中宗を迎え、擁立の功により太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥・知政事を加えられた。
- まもなく中宗は弟たちを皆殺しにしようと図り、弘昌が賢明で人望を得ていることをとくに忌んだ。乾和二年(944年)、襄帝の陵を海曲に祀らせると称して弘昌を遣わし、昌華宮に至ったところで不意を襲わせて殺し、賊に殺されたと公表した。
齊王弘弼
- 高祖の第六子。大有五年に齊王に封ぜられた。中宗が即位すると建武節度使として出鎮した。
- 弘杲が罪を得ると、弘弼は大鎮にあることが不測の禍を招くのを恐れ、身を束ねて入朝したいと請い、許された。
- まもなく中宗はやはり弟たちを許さず、弘弼を私邸に幽閉させた。乾和五年(947年)、弘暐・弘簡・弘建・弘濟・弘道・弘照・弘益とともに同日に殺され、その女はすべて後宮に入れられ、子はことごとく殺された。
韶王弘雅
- 高祖の第七子。弘昌・弘弼らと同時に韶王に封ぜられた。應乾年間に致仕を命ぜられ、乾和三年(945年)に殺された。
鎮王弘澤
- 高祖の第八子。大有年間に鎮王に封ぜられ、のち邕州に出鎮して善政があった。中宗はこれを強く忌んだ。
- 乾和二年(944年)、邕州に鳳凰が現れると中宗はいよいよ怒り、人を遣わして毒殺し、急死したと公表した。
萬王弘操
- 高祖の第九子。弘澤らと同日に萬王に封ぜられた。
- 数年後、交州の牙將皎公羨が楊廷藝を殺して自立し、廷藝の旧将呉權が兵を挙げて交州を攻めた。公羨は敵しがたきを懼れて救援を乞い、高祖は弘操を靜海節度使として交王に改封し、白藤に出兵させ、自らは兵を率いて海門に駐屯した。
- ところが呉權はすでに公羨を殺しており、海口で迎え撃った。あらかじめ海中に鉄杭を打ち込んでおき、呉權の兵は満潮に乗じて進み、偽って退いて弘操を誘い込んだ。弘操が勢いに乗じて追撃したところ、潮が引いて舟を返すと杭に乗り上げてことごとく転覆し、弘操は大敗して溺死した。
循王弘杲
- 高祖の第十子。大有五年に循王に封ぜられた。應乾初年、兄の弘昌と心を合わせて擁立にはたらき、副元帥を加えられ政事に参与した。
- 中宗の即位にあたって国中の議論が騒然としたので、弘杲はしばしば賊の討伐を請い、ひそかに劉思潮らを斬って外の議論を鎮めるよう勧めた。思潮らはこれを聞き、弘杲が謀反を企て異心を抱いていると讒言した。
- 中宗は激怒し、使者を夜に遣わして弘杲を召した。弘杲は逃れられぬと悟り、使者を留めて中に入り、沐浴して仏前に「弘杲は誤って王宮に生まれ、今まさに殺されようとしている。後世は民家に生まれて屠戮を免れたい」と祈り、涙ながらに家族と訣別してから召しに応じ、着くとその場で死を賜った。
- 一説には、弘杲が客を宴していたところへ劉思潮が譚令禋とともに衞兵を率いて突入し、斬ったという。
恩王弘暐
- 高祖の第十一子。大有初年に恩王に封ぜられ、乾和五年(947年)に弘弼らとともに中宗に殺された。
高王弘邈
- 高祖の第十二子。高王に封ぜられ、中宗のとき雄武節度使として邕州に鎮した。
- 弘邈は齊王・鎮王が相次いで死んだことから邕州行きを固辞して宿衞を願ったが、許されなかった。
- もとより柔弱で取り柄も欠点もない人柄で、鎮に着くと政務を僚佐に委ね、日々酒を飲み鬼神に祈るのを常とした。
- 何者かが上書して弘邈が乱を謀っていると誣告し、中宗は甘泉宮使の林延遇を遣わして毒を賜り殺させた。乾和十二年(954年)四月のことである。
同王弘簡
- 高祖の第十三子。大有年間に同王に封ぜられ、のち弘弼らと同日に殺された。
益王弘建
- 高祖の第十四子。大有年間に益王に封ぜられ、のち中宗に殺された。
辨王弘濟
- 高祖の第十五子。辨王に封ぜられた。乾和五年(947年)に中宗が弟八人を殺したとき、弘濟も害された。
貴王弘道
- 高祖の第十六子。大有五年に貴王に封ぜられ、弘弼ら八人とともに殺された。
宣王弘照
- 高祖の第十七子。宣王に封ぜられ、乾和五年(947年)に殺された。
通王弘政
- 高祖の第十八子。弘益より年上で、兄弟と同時に通王に封ぜられた。乾和十三年(955年)に禎州節度使となり、その年の夏に殺された。ここに高祖の諸子は尽きた。
定王弘益
- 高祖の第十九子。大有初年に定王に封ぜられ、乾和五年(947年)に弘弼ら八人とともに害された。
史論
- 高祖の庶子十七人のうち、中宗に殺された者は十三人に及ぶ。同腹の兄弟に刃を向けて後嗣まで残さなかったのは、桀・紂の暴虐もこれに過ぎない。父子ともに凶悪を尽くし、禍が門内から生じたのは、天の報いのはたらきの巧みさというべきであろう。
中宗の子たち
- 中宗の子は五人。長子が後主、以下、璇興・慶興・保興・崇興である。
桂王璇興
- 中宗の次子。乾和十一年(953年)に桂王に封ぜられた。
- 後主が即位すると宦官の陳延壽が「先帝が陛下に位を伝えられたのは弟たちを皆殺しにしたからです。諸王を少しずつ誅して後患を絶つべきです」と献策し、後主は頷いた。まもなく璇興は殺された。
荊王慶興
禎王保興
- 乾和年間に禎王に封ぜられ、後主とはかなり仲がよかった。
- 宋師が城下に迫ると、後主は保興に百官を率いて出迎えさせようとしたが、郭崇岳に遮られて進めなかった。やがて宋將の潘美と戦って敗れ、民家に逃れたが宋軍に捕らえられた。宋の太祖は保興を右監門率府率に任じ、その官で没した。
梅王崇興
- 中宗の末子。乾和十一年(953年)に梅王に封ぜられた。その後の事跡は原文欠。
後主の子たち
守節
守正
- 後主の第二子。宋に入りやはり崇儀副使となり、没した。宋の太宗はその家が貧しいと聞き、月に錢一萬を給する詔を下した。
- 子の克昌は三班奉職、國昌は借職となった。
守素
- 後主の第三子。宋の咸平年間に侍禁の官にあったが家は貧しく、真宗は白金百両を賜り、宰相に「諸々の僭偽の王の子孫はおおむね困窮している。僭上奢侈の後を継いだ者は農事の辛苦を知らないためだ」と語った。
- のち累進して内殿崇班に至り、天禧年間にはさらに閤門祗候に採用された。
守通
増城公主
- 烈宗の女。乾亨九年(925年)、長和の驃信鄭仁旻が使者を遣わして朱鬃の白馬を献じ、婚を求めた。
- 使者は自ら「皇親母弟・清容布燮兼理」を称し、金錦の袍・虎綾紋・攀金の刀を賜り、帰仁慶侯・食邑一千戸に封ぜられ、節を持した鄭昭淳であった。昭淳は学を好み文才があり、高祖と宴に遊んで詩を賦したが、群臣の多くは及ばなかった。
- そこで公主を仁旻に嫁がせた。翌年、仁旻は丹薬を服して死に、公主はその国で生涯を終えた。
- また高祖の女である清遠公主は閩主の王璘に嫁いだ。その伝は閩の春秋(閩の列伝)に見える。