十国春秋卷五十七 後蜀十 列傳 僧可朋

生涯と詩

  • 僧可朋は丹稜の人で、詩をよくし、酒を飲むことを好んだが、貧しく酒代を償うすべがなく、あるいは詩を作ってこれに酬いた。そこで自ら「酔髠」と号した。
  • 若い時から盧延譲・方干と詩友であり、蜀に来ると歐陽炯と親しくし、炯はこれを孟郊・賈島になぞらえ、力を尽くして後主に薦めたので、後主は銭帛を賜り加等した。
  • ある夏、炯は同僚とともに淨衆寺で涼をとり、林亭に依って樽俎を列ね、皆が歓飲して自若としていたところ、寺の外に耕す者が烈日の中で背を晒し、田を耘り鼓を撃つことが疲れ果てても止まなかった。可朋はその席にあって「耘田鼓」の詩を作って炯に献じた。曰く、「農舎田頭の鼓、王孫筵上の鼓。鼓を撃つはみな鼓の為なるも、一に何ぞ楽しく一に何ぞ苦しきや。上に烈日あり、下に焦土あり。願わくは我が天公これに雨を降らせ、桑麻をして熟せしめ、倉箱をして富ましめ、饑えず寒からず、上下一般ならんことを。」言葉は浅近であるが理を極めており、炯はただちに衆賓に飲を撤せさせた。
  • 可朋には詩千余篇があり、『玉塁集』と号した。その「洞庭湖を題す」に云う「水は天影を涵して闊く、山は地形を抜きて高し」、また詩に云う「虹は千嶂の雨を収め、潮は半江の天を弄す」、みな佳句である。