十国春秋卷五十三 後蜀六 列傳 張䖍釗

鳳翔攻めと非業の死

  • 張䖍釗は後唐に仕えて山南西道節度使となった。䖍釗はすでに護国の安彦威らの兵と合流して鳳翔を攻めたが、鳳翔の城の濠は浅く低く、人心は危急であった。潞王李従珂は城壁に登って慟哭して言った、「私は元服前から先帝に従って百戦し、生死の間を出入りし、刀傷が全身に満ちて、今日の社稷を打ち立てるに至った。今、朝廷は讒言する臣を信任し、骨肉の間柄をも猜疑しているが、私に何の罪があって誅を受けねばならぬのか」と。これを聞く者は皆哀れんだ。
  • 䖍釗は生来性急であり、白刃を振るって士卒に城に登るよう命じたところ、士卒は怒って大いに罵り反撃した。䖍釗は逃れて免れ、そのまま成都に奔った。当時、興元はすでに高祖の所領となっていたが、高祖は改めて䖍釗を本軍(山南西道)節度使・同平章事とした。䖍釗は固く辞退して赴任しなかった。
  • 広政の初め、兼中書令を加えられ、まもなく、侯益が鳳翔にいたので、命によって北面行営招討安撫使に任じられ、鳳翔を攻めてこれを脅すこととなった。まもなく益が後主に款を送ってきたが、䖍釗が宝鶏に至ったとき、兵を止めて進まずにいると、たまたま益がまた翻意し、漢に付いて䖍釗の軍を拒んだので、䖍釗は勢いを孤立させ、ついに逃げ帰って興州に至り、恥じ怒って死んだ。時に十一年二月であった。