十国春秋卷五十三 後蜀六 列傳 孫漢韶
両鎮を挙げて降る
- 孫漢韶は振武の人である。父の重進は後唐の太祖(李克用)の養子となり、姓名を李存進と賜り、荘宗の時、張処球と戦って陣中で戦死した。漢韶は明宗に仕えて武定軍節度使となり、本姓に復した。
- 潞王李従珂の乱に際して、漢韶は張䖍釗らとともに上奏して兵を合わせてこれを討ったが、まもなく䖍釗は官軍と合流して鳳翔を攻め、漢韶を留めて興元を守らせた。䖍釗が敗れて帰ると、そのまま漢韶とともに両鎮を挙げて高祖に降った。明徳元年七月、永平軍節度使に任じられた。
- 広政年間、山南西道節度使に改められ、兵を移して固鎮を攻め散関を扼したので、後主が秦・鳳・階・成の地をことごとく領有できたのは、漢韶の功による部分が大きい。まもなく左匡聖都指揮使を授けられ、また捧聖控鶴都指揮使兼中書令に遷り、十八年、武信軍節度使を加えられ、楽安郡王に封ぜられた。軍職を罷め、七十余歳で薨じた。