父子相継ぐ
- 毋守素、字は表淳、宰相母昭裔の子である。弱冠にして秘書郎から身を起こし、戸部員外郎・知制誥に累進し、正式に中書舎人・工部侍郎に拝命され、外に出て雲安榷監使となった。後主はその二子の克温・克恭を召見し、ともに緋衣を賜り、克恭には鑾国公主を娶らせ、恩礼はいっそう厚くなった。広政二十年、守素を工部尚書に拝した。
- 当時、昭裔は塩鉄を判していたが、老衰して職務に堪えられず、その事務を判官の李匡逺に委ねていたが、出入りの案件は多く滞って処理されずにいた。後主は守素に代わって使の職務を判させたので、父子が相次いでこの任に就いたことを、世間はかなり栄誉なこととした。まもなく判度支に改められ、彭州刺史を領し、また塩鉄を判した。守素は親に仕えることに大変勤勉であり、真夏の暑い時であっても、必ず朝服を着て笏を執り、朝夕の礼を行った。
- 国が滅びて宋に入ると、工部侍郎を授けられた。彼の成都の荘園・茶園の財産を籍に上げて献上したので、宋の太祖は詔をもって銭三百万緡を賜ってその代価とし、なお汴京に邸宅を賜った。年末に、兄の子である正已が、守素が父の喪にありながら妾を娶ったことを訴えたため、職を免ぜられた。正已はこのとき岳州司法であったが、これに連座して一官を奪われた。
- 開宝の初め、起用されて国子祭酒となった。太祖が河東を征伐した際、趙州を権知するよう命じられ、まもなく容州を知り本管の水陸転運使を兼ねるよう移された。これより先、管内の民に租税を滞納する者があり、あるいは県吏が代わって納め、あるいは兼併の家から借金し、しばしばその妻や娘を人質として差し出していた。守素はこの事情を上奏し、その日のうちに詔が下ってこれを禁止させた。享年五十三で卒した。大中祥符三年、末子の克勤が昭裔が刻した『文選』『初学記』『六帖』の諸版木を献上し、三班奉職に補せられた。