十国春秋卷五十三 後蜀六 列傳 賈鶚

剛直の御史

  • 賈鶚は青社の人である。高祖に仕えて御史となり、剛直方正で厳格公正であり、その門には私的な謁見の者がなかった。明徳元年、彭州刺史の田敬全に招かれて本州の副官の職に就き、まもなく刺史の事務を代行することとなり、政治は公明であったので、人々は多くこれを敬い畏れた。
  • 当時、彭州に「醋頭」と号する僧がおり、髪を長く垂らし、功徳の灯像を三衣に仕立てて用い、その様子は狂人を装っているようでありながら、言うことがしばしば的中したので、賈鶚を恐れてみだりに境内に入ろうとしなかった。彭州の人々が賈鶚のもとへ訴状を持参し、この僧を追い出すよう請うたところ、賈鶚は判決文にこう書いた。「出家しながら長髪を除かず、煩悩をもって衣とし、仏像を掲げながらどうして慈尊を敬っていると言えようか。禅室に向かいながら邪淫を行い、妖言を発して衆を惑わし、みだりに暦数を裁断して上は朝廷を侮り、みだりに災殃を述べて下は愚民を惑わしている。まして今、有漏の身でありながら無生を証していないのに、功徳を修めることを名目にし、私財を蓄積して商売のようなことを行っている。ただ正しい人がことを穏便に済ませようとし、君子が寛容な心で剪除を議論せずにきたために、これほど猖獗に至った。嘆かわしいことに、田舎の人々は競って妖しい呼び名を言い立て、訴状を連ねて衙門に詣で、この僧を迎え祀ることを願っている。厳しい命令を下して、この風潮を断つべきである。所由の役人はこの者が境内に入るのを捕らえ、来次第、脊に杖罰を加えて上奏せよ」と。醋頭はこれを聞くと、隣の境まで越えて去っていった。