十国春秋卷五十三 後蜀六 列傳 何瓚

太原留守から蜀へ

  • 何瓚は閩の人である。唐末に進士に挙げられ及第した。後唐の荘宗が太原節度使であったとき、招かれて判官となった。荘宗が出征するたびに張承業を留めて太原を守らせていたが、承業が卒すると、瓚が代わって留守の任を執った。瓚は人となり明敏で、吏事に通じており、外見は疎放簡素に見えて内心はきわめて周到であった。
  • 荘宗が即位すると、瓚を諌議大夫に拝したが、まもなく北京(太原)の留守を願い出た。瓚は明宗と旧知の間柄であり、明宗が帝位に即くと召し還され、内殿で謁見して長らく労い問うた。まもなく僕射に進み、西川節度副使に任じられた。
  • このとき、高祖はちょうど副使の趙季良を腹心としていたので、瓚がこれに代わると聞くと、急ぎ上奏して季良を留任させ、瓚を行軍司馬に改めた。瓚はやむを得ず成都に来た。高祖が北京にあって馬歩軍都虞候であったとき、瓚は太原の留守であり、高祖は軍礼をもって瓚に仕えていたが、瓚は常に法をもって高祖を縛ったので、高祖は初めは快く思わなかった。瓚が司馬となるに及んでも、なお努めて厚く待遇した。
  • 高祖が挙兵すると、瓚の司馬の職を罷め、私邸に置いた。瓚は恨みを飲んで死んだ。瓚はかつて「蜀城書事」の詩を作り、「到頭須卜林泉隠、自愧無能繼卧龍(結局は林泉に隠れることを占うべきであろう、自ら卧龍〈諸葛亮〉の後を継ぐ能なきを恥じる)」と詠んだ。この詩を書いてから十旬(百日)後、重い病を得た。