諫言と流謫
- 李如実は初め梁の末帝に東宮のもとで仕え、もとより清廉正直をもって知られていた。末帝が即位するに及び、賢良の臣を遠ざけ退け、小人を身近に近づけたので、如実はたびたび諫めることがあった。
- ある日、末帝は如実を顧みて言った、「卿は天子が誰によって補われるものか知っているか」と。如実はゆったりと答えて言った、「臣下によって補われるものです」と。末帝は言った、「朕は三河の地を拠点とし、地位は万乗の尊きにあり、天がこれを補うのであって、どうして人臣が主となり得ようか」と。
- 如実は言った、「わが太祖(朱全忠)は軍隊の中から身を起こし、十死に一生を得て、ようやく節を四鎮に居え、地位は万人の上に立つに至りました。陛下は深宮のうちにあって、長く富貴に居り、先代の余栄を仰ぎ承って万方を嗣ぎ守っておられますが、どうして王業の艱難をご存知でしょうか。臣下がともに力を尽くすには、治にあって乱を忘れず、安きに居て危うきを思い、深淵に臨むように薄氷を踏むように、我が身を責め過ちを省みる必要があります。まして呉門は強盛であり、蜀国は繁華であり、太原には兄を殺した恨みがあり、秦の朝廷には国に背いた怨みを抱いております。得失は瞬時に決するものであり、どうしてこれが天によって補われたものと言えましょうか」と。末帝は怒って言った、「愚かな老人め、ともに語るに足らぬ」と。翌日、鄭州□(底本欠字)に謫せられ、さらに二晩後には汝州副使に貶せられた。
- 如実は汝州に至ると、自ら一台の寝台つきの車を作り、常にその中に酒一瓢、琴一張、書物数巻を置き、小僮十数人に命じて大通りに乗り入れさせ、四方を眺めては朗々と詩を吟じたので、見る者の多くはひそかに笑った。しばらくして、梁が内へ召し返す意向のないことが分かり、如実は心中大いに不満を持ち、韻を落とした詩を作ってこれを諷刺した。梁が滅びた後、成都に入り、高祖はその賢を知って戸部侍郎を拝させたが、まもなく卒した。