十国春秋卷五十一 後蜀四 列傳 張業

張業

張業は仁罕の甥である。初め名を知業といったが、高祖の偏諱を避けて単名業とした。人となりは驍勇善戦で、仁罕とともに高祖に従って蜀に入り、分かれて諸盗を討ちことごとくこれを平らげた。天成中、右廂馬歩軍都指揮使金紫光禄大夫検校司空守簡州刺史上柱国の官にあり、長興元年、先鋒都指揮使を充てられ兵三万を率いて遂州を攻めて功があった。久しくして寧江軍留後を拝し、まもなく高祖は墨制をもって節度使に署した。唐の明宗が高祖に蜀王の爵を賜うと、すなわち業に寧江軍節度使を領させることを詔した。高祖が尊号を称するに及んで業を右匡聖歩軍都指揮使を充てさせ、なお寧江の節鎮を管すること故の如くした。後主の時、検校太尉を加えられた。仁罕がすでに罪に伏し、業はこの時まさに禁兵を掌っていたので、後主はその反側を懼れそこで用いて相とし以てこれを安んじ、同平章事を命じた。広政元年、左僕射兼中書侍郎同平章事に進み、まもなく司空兼判度支を加えられた。業は性豪侈で強いて人の田宅を市い亡命を蔵匿し、また私第に獄を置いて負債者を繋ぎ、あるいは歴年瘐死するに至った。蜀人は大いにこれを怨んだ。業の子継昭は官は検校左僕射に至り、また撃剣を好み、常に僧の帰信や剣に善き者を訪ねた。左匡聖都指揮使孫漢韶は先より業と和せず、密かに業父子が謀反していると告げた。後主は大いに怒り、その専恣の状を廉察して得て、そこで李昊・安思謙と謀り、その入朝に及んでこれを執えて殺し、詔を下してその罪悪を暴き、その家を籍した。時に広政十一年であった。業は仁罕の死より凡そ十五年後であった。