十国春秋卷五十一 後蜀四 列傳 李仁罕
要約
李仁罕、字徳美は陳留の人。唐の同光年間、李紹琛の反乱を任圜・董璋とともに撃破して勇戦の名を挙げ、明宗の代には左廂馬歩都指揮使、光禄大夫検校太保守彭州刺史を経て諸軍馬歩都指揮使に進んだ。かつて張業とともに宴を設けて高祖を招いた際、二将が謀反すると讒言する者があったが、高祖が護衛も連れず単身邸に赴くと、仁罕は頭を叩いて涙を流し忠誠を誓ったという逸話も伝わる。高祖挙兵の際は行営都部署として遂州を陥し唐将夏魯奇を自殺させ、峡路行営招討使として忠州・万州・雲安監・夔州を次々に攻略し、峡江攻略戦で最大の功をあげて武信軍留後・節度使に至った。しかし東川の帰属をめぐり趙廷隠と対立し、高祖の裁定により遂州に戻された。
高祖の臨終には趙季良・趙廷隠・王処回らとともに顧命を受けて後主の即位を輔けたが、後主の代には旧臣が驕蹇不法に振る舞う中でもとりわけ甚だしく、第宅を広げ人の良田を奪い墳墓まで発掘し、前蜀後主の寵姫を娶ろうとするなど跋扈が目立った。功を恃んで六軍を判す権を強引に求め中書令を加えられたが内心は不満を抱き、張公鐸・韓継勲・韓保貞・安思謙ら後主側近の讒言と趙廷隠の同意もあって、後主はその入朝に乗じてこれを誅殺し、一族を族滅させた。
現代語訳全文
李仁罕
李仁罕は字を徳美といい、陳留の人である。唐の同光の時、李紹琛が反して漢州を攻め破ると、高祖は仁罕を遣わして任圜・董璋と合流させこれを撃破した。仁罕はこれによって勇戦の名を得た。明宗が入って立つと、仁罕は功を積んで左廂馬歩都指揮使となり、まもなく光禄大夫検校太保守彭州刺史上柱国に進み、諸軍馬歩軍都指揮使を充てられた。仁罕は常に張業とともに宴を設けて高祖を招こうとしていたが、期日前に二将が宴の日に乱を作すと謀っていると告げる者があった。高祖はいまだこれを信じなかったが、その日になると宴に就くにあたり左右の護衛をことごとく去らせ独り仁罕の邸に詣った。仁罕は頭を叩いて涙を流して言った、「公は赤心を推して人の腹中に置かれる。老兵はただ死を尽くして徳に報いるのみです」と。高祖が成都で挙兵すると、仁罕を行営都部署とし兵を率いて遂州を攻めさせ、城が陥ちて唐将夏魯奇は自殺した。功をもって武信軍留後に擢せられ、続いて峡路行営招討使となり、進んで忠州を抜き、また万州を破り、雲安監を陥し、還って夔州に克った。峡江の捷で仁罕の功が最も多かった。まもなく趙廷隠と東川の鎮守を争って頗る廷隠と相い能わなかった。高祖は仁罕にそのまま遂州に帰るよう命じた。長興四年、高祖は墨制をもって武信軍節度使に署した。ほどなく明宗はことごとくその署するところに依った。高祖が即位すると仁罕を衛聖諸軍馬歩軍指揮使とし、なお武信の節鎮を領させた。ほどなく遺詔を受けて政を輔け後主を奉じて皇帝の位を嗣がせた。この時、諸将の多くは高祖の故人であり、後主に事えることますます驕蹇不法で、第宅を広げ人の良田を奪い墳墓を発掘する者があったが、仁罕および張業がとりわけ甚だしかった。仁罕は高祖の時よりすでに恣に奢豪であった。前蜀主の宮嬪に国色ある者があり、これを娶ろうとしたが高祖に責められることを懼れていた。この時に至り次第に跋扈の志を有し、頗る功を恃んで六軍を判すことを求めた。後主は曲にその請に従い中書令を加え六軍事を判せしめたが、内心はその忿りに勝えなかった。たまたま張公鐸・韓継勲・韓保貞・安思謙らがみな後主に藩邸で事え素より仁罕を怨んでおり、共に仁罕に異志があると譖言し、廷隠もまたこれと隙があったので従臾した。後主はついにその入朝に因ってこれを執えて殺し、あわせてその家を族滅した。この時、李肇は鎮より入朝し杖をついて入見し疾と称して拝しなかったが、仁罕が死んだと聞くと遽かに杖を釈いて拝した。