生涯
- 韓昭、字は徳華、長安の人である。性格は佞(へつらい)に長け、人の意向をうかがい迎えることに巧みで、潘炕の子の在迎、顧彦朗の子の在珣とともに後主の狎客(お気に入りの遊び相手)となった。後主が宣華苑を起こすと、韓昭は近臣とともに日夜後主に侍って酒宴を開き、男女は雑坐して淫らで礼を欠くことこの上なかった。韓昭はもともと品望がなく、特に寵愛を受けて宮掖に出入りすることができ、官は礼部尚書兼成都尹にまで累進した。
- 乾徳二年(920)、後主が北巡の詔を下すと、韓昭は昭文思殿大学士に進み、その位は翰林承旨の上にあった。韓昭は寵を恃んで飽くことなく、通渠・巴集の数州の刺史(の任命権)を売って自分の邸宅の造営費用に充てることを求め、後主はことごとくこれを許可した。さらに韓昭は王承休・安重霸とともに秦州の山川・土風の美を盛んに称え、後主に行幸を勧めて姦計とした。
- 秦州判官の蒲禹卿は極力諫めたが、韓昭はその上表を得て大いに怒り、蒲禹卿に「私はお前の上表を没収した。追って獄吏に命じてお前を尋問させよう」と言った。まもなく唐の軍が蜀に入ると、後主はまさに群臣と向かい合って泣いていた。王宗弼が急ぎ緜谷から馳せ帰り、大玄門に登って韓昭を佞諛(へつらい)によって国事を誤らせたと責め、金馬坊門で梟首・斬殺し、その首を函に入れて魏王継岌に送った。
- 韓昭は粗(あら)ましは文章の才があり、琴・奕・書算・射法に至るまでことごとく渉猟した。朝士の李台瑕がこれを譏って「韓八座(韓昭)は芸事に携わることは、まるで折れた靴下の紐のようで、寸法の長さもない」と言い、当時の人々はこれを正しいとした。