生涯
- 黄崇嘏という者は、常に男子の服装をして両川を遊歴していた。周庠が高祖に従って卭南で権知卭州(卭州の代理長官)となっていたとき、臨卭県が失火をした者を州に送ってきたが、黄崇嘏がまさにその人であった。
- 周庠は判決を下して獄中に繋がせたところ、黄崇嘏は詩を上って召見を得た(詩に曰く、「偶々離る幽隠の住まい臨卭、行止は堅貞にして濶(ひろ)き松に比す。何事ぞ政の清きこと水鏡のごとし、他の野鶴を絆(つな)ぎて深き籠に向かわしむ」)。自ら郷貢進士と称し、年は三十ほど、応答は詳細で敏捷であったので、そのまま釈放を命じられた。
- 数日後、また長歌を献じたので、周庠はいよいよこれを奇とし、学院に召して諸子姪とともに遊ばせた。琴・奕(囲碁)を巧みにし、書画に妙を得ていた。まもなく推薦されて司戸参軍を摂(かねる)したところ、胥吏(下役人)は畏れ服し、案牘(文書事務)は一挙に清らかになった。
- 周庠はすでにその英明を重んじ、またその風采を美しいと思い、一年ほどして自分の娘を娶らせようとした。黄崇嘏はそこで謝状を作り、あわせて詩一章を献じてその意を示した(詩に曰く、「一たび辞す、翠を拾う碧江の湄(ほとり)、貧しく蓬茅を守るも、ただ詩を賦して自ら藍衫に服す。板椽(そまつな家)に居り永く鸞鏡を抛(な)げうち、蛾眉を画くことなし。立身は卓爾として青松の操あり、挺(ぬきん)でし志は鏗然(響き渡るさま)として白璧の姿あり。幕府もし坦腹(婿となること)を容(ゆる)さば、願わくは天よ速やかに変じて男児と作さんことを」)。
- 周庠はその詩を見てひどく驚愕し、すぐに召見して問いただしたところ、実はもと黄使君(黄某という長官)の娘であり、幼くして父母を失い老嫗と同居し、もとより人と婚約したことはないという。周庠はますますその貞潔さを嘉(よみ)し、その後暇を乞うて臨卭に帰り、その後の消息は分からなくなった。