十国春秋卷四十五 前蜀十一 列傳 趙延乂

生涯

  • 趙延乂(『欧陽史』には延義に作るが、今は『蜀檮杌』『通鑑』に従う)、字は子英、趙温珪の子である。後主に仕えて司天監となり、また数学(暦数の学)に優れ、とりわけ星緯・風角の術に長じていた。
  • 乾徳六年(924)、後主が秦州へ巡幸することを詔した。成都を出発する日、天地は暗く冥(くら)く、群れをなす鴉が旗竿にとまり、その鳴き声は大変哀しげであった。梓橦(梓潼)に至ると大風が屋根を発き木を抜いた。趙延乂が進み出て「これは貪狼風です。千里の外に必ず軍を破り将を殺す凶事があるでしょう」と言った。まもなく唐の軍が三泉に至り、三人の招討使はみな寨を棄てて夜逃げした。これがその験(しるし)である。
  • 国が滅びると唐に入り星官となった。清泰年間(934~936)、翰林天文の官にあり、端明殿学士の李専美らと交代で中興殿に宿直し、大いに恩遇を被った。夜分に至るまで語ることも度々あった。廃帝が石敬瑭を鄆州に転任させようとした時、趙延乂は「天象が度を失っている。安静を保って災いを弭(や)めるべきである」と力説し、事はいったん止まったが、まもなく再び薛文遇の言葉が用いられ、ついに変事を激発させることとなった。
  • 趙延乂はその後晋に仕え、契丹が晋を滅ぼすと契丹に随って鎮州に至った。李筠と白再榮が麻答を追い出して漢に帰そうと謀った際、趙延乂は術数を借りてこれに賛成し成就させた。まもなく漢に仕えて司天監となった。隠帝が即位すると、宮中にしばしば怪物が現れ、瓦石を投げつけ門扉を揺さぶった。帝は趙延乂にこれを祓い除く方法を尋ねた。趙延乂は「臣の職は天象を司ることであり、禳除(祓い除くこと)のことは臣の知るところではありません。しかし臣が聞くところでは、恐らく山魈(山の妖怪)でしょう」と答えた。
  • 周の太祖が魏より京師に至った時、趙延乂を召して「漢の国運が短く促(つづ)まったのは天数によるものか」と問うた。趙延乂は「王者が天下を撫するには当然仁恩徳沢をもってすべきであるのに、漢の法は深く酷であり、天下は寃(無実の罪)を訴えました。これがその滅んだ所以です」と言った。
  • これに因って周に仕え、太府卿・判司天監となり、病により卒した。