十国春秋卷四十二 列傳 王先成

要約

王先成は蜀州新津のもと書生で、乱世に兵となった。高祖が西川に入って彭州の楊晟を包囲した際、諸砦の兵が日々出て民を略奪する「淘鹵」の惨状を深く憐れみ、諸将の中で賢明な王宗侃を見込んでその軍門を叩き、彭州の民がもともと西川に属していたのに軍の掠奪によってかえって楊氏を慕うようになりかねない窮状を説いた。宗侃は驚いてどうすべきか策を問い、先成は民の招安・略奪禁止・招安砦での収容・専任責任者の設置・掠奪された家族の捜索と引き渡し・九隴行県の設置・麻の売却による生業再建など七か条の具体策を提案し、高祖はこれを採用して大いに成果を上げ、三日のうちに民が競って招安砦に赴き生業を取り戻すに至った。乾寧元年には彭州攻城が長引く中で龍尾道を築いて城壁への突入路を開き、楊晟討伐の勝利に貢献した。この功により官を重ねて夔州刺史に至り、永平四年には荊南の侵攻を撃退したが、上官である鎮江軍節度使王宗寿にその功を妬まれ、甲冑を求めても白布の袍しか与えられない冷遇を受けた。先成がひそかに人を遣わしこの事情を高祖に訴えようとしたところ、宗寿はその使者を捕らえて先成を呼び出し、上奏が届くより先に斬殺してしまった。これを知った高祖は宗寿に対し大いに怒ったという。

現代語訳全文

王先成

  • 王先成は蜀州新津の人で、もとは書生であったが、世が乱れて兵となった。高祖が西川に入って彭州を包囲していたとき、諸砦は日々出て民を略奪しており、これを「淘鹵」と呼んでいた。先成はこれを深く憐れみ、諸将のうち北砦の王宗侃が最も賢明であると見抜いて、その軍門を叩いて説いた。「彭州はもと西川の管轄下にありましたが、陳敬瑄が楊晟を招いて四州を割いて与え、ともに朝命に逆らわせました。今、陳敬瑄はすでに平定されましたが、楊晟はなおこの地に拠っております。州の民はみな西川こそが本来の府であり、司徒(王建)こそが自分たちの主君であると知っております。それゆえ大軍が到着した当初、民は城に入らず山谷に逃げ込み、招安(帰順の呼びかけ)を待っておりました。しかし軍が来てから幾日も過ぎたのに招安の命は聞かれず、軍士はかえって彼らの財貨を奪い、家畜を追い立て、老幼婦女を引き離して奴婢とし、父子兄弟を離散させ愁い怨ませております。山中にいる者は暑さや雨に晒され、蛇や虎に傷つけられ、孤立無援で飢え渇き、訴える先もありません。彼らは初め楊氏が自分たちの主君でないとして従わなかったのですが、今、司徒がこれを憐れまなければ、かえって楊氏を慕うようになりましょう。」宗侃ははっと驚き、寝台を先成の近くに寄せて、どうすればよいかと策を問うた。先成は七つの事柄を条件立てて高祖に上申するよう願い出た。
  • その一、百姓を招き安んずること。その二、諸砦の軍士とその子弟が一人も淘鹵に出ることを禁じ、あわせて砦の周囲七里以内での樵採・放牧を許し、その境界を越える者は斬るとの上表を願うこと。その三、招安砦の中に数千人を収容できる場所を設け、招いた百姓を住まわせること。その四、招安の事は一人に総轄させ、百姓の驚き疑いを免れさせ、宗侃に降帖を与えて専らその事を掌らせること。その五、四つの砦の指揮使に厳命し、先日彭州から掠め取った男女老幼をことごとく捜し出して営場に集め、父子兄弟夫婦で互いに見分けがついた者はすぐに従わせ、私的に一人でも隠し持つ者は斬ること。その六、招安砦の中に九隴行県を置き、もと南鄭県令であった王丕を代理の県令とし、役所を設けて百姓を撫育させ、その中の壮健な子弟を選んで通行証を与え、山に入って親戚を自ら招き寄せさせること。彼らは厳しく略奪を禁じていることを知れば、以前に掠め取られた者もみな安堵を得て、あたかも子が母のもとへ帰るように相率いて山を下り、日ならずしてみな出てくるであろうこと。その七、彭州の土地は麻に適しており、百姓が山に入る前に多く麻を漬け込んで蔵していたので、それぞれ田里に帰るよう告げ知らせ、漬けておいた麻を出して売らせ、それを資糧とすれば、必ず次第に生業を取り戻すであろうこと。高祖はこれを得て大いに喜び、直ちに実行し、すべて上申されたとおりにしたところ、三日のうちに民は競って招安砦に赴き、次第に生業を取り戻していった。
  • 乾寧元年、高祖が彭州を攻めてもなお落ちなかったとき、先成は龍尾道を築いて女墻(城壁の低い部分)につなげることを願い出、これによって城壁を伝って登ることができ、楊晟は殺され、彭州は平定された。後に功を論じられ、先成は官を重ねて夔州刺史に至った。永平四年、荊南の兵が夔州に侵攻すると、先成はこれを撃退した。当時、嘉王王宗寿が鎮江軍節度使であったが、先成の功を侮り、ひどく歯がゆく思っていた。折しも先成が甲冑を求めたところ、白布の袍を与えられただけであった。まもなく荊南の兵が敗走すると、先成はひそかに人を遣わして甲冑を与えなかった事情を奏上させたが、宗寿はその使者を捕らえて先成を呼び出し、斬ってから後で上奏した。高祖はこれによって宗寿に大いに怒った。