十国春秋十國春秋卷四十二 前蜀八 列傳(王萬弘・劉知俊ら降将、張道古ら諫臣、劉纂ら諸人)
呉任臣の撰。岐から前蜀に降った将(王萬弘・李彦徳・劉知俊・桑弘志)、直言をもって知られた士人(張道古以下十人)、および前蜀に仕えた諸人の伝を収める。
王萬弘
- 一に「萬洪」に作る。出身地は原本で欠字。岐王李茂貞が養子として李継密と改姓改名させた。
- 景福初(892年)、茂貞が兵を発して興元を破ると、上表して継密を権知興元軍府事とした。
- 天復二年(902年)、王宗滌が漢中を破ると、継密は降伏し、成都へ移された。
- 高祖は「継密は李茂貞の暴虐を助けて三輔を荒らした唐の罪人だ。しかし降ってきた以上は殺すに忍びない」と言い、もとの姓名に戻したが、召見することもなかった。
- 諸将はしだいに彼を見下し、萬弘は酒に沈んで気を紛らわせた。俳優たちにまで戯れの対象とされ、憂憤に堪えず、ある夜、酔って池に身を投げて死んだ。
李彦德
- はじめ岐王李茂貞に仕えて成州刺史となった。
- 永平五年(915年)、王宗綰が成州を落として彦徳を捕らえ、成都へ送った。前蜀では大将に任じた。
- 彦徳はもとより勇猛で、常に牛革の帽をかぶり漆塗りの甲を着て黒馬に跨り、斫刺刀を手にしていた。軍中では「薄地の鴉」と呼ばれた。
- 一説に彦徳はもとの姓を呂といい、李彦徳の姓名は茂貞から賜ったものだという。
劉知俊
- 字は希賢、徐州沛の人。若くして時溥に仕えた。溥が梁王朱全忠と攻め合うと、知俊は麾下の二千人を率いて全忠に降り、左開道指揮使とされた。
- 知俊は容貌雄偉で、甲を着けて馬に乗り剣を振るって敵中に突入し、勇は諸将にぬきんでていた。当時「劉開道」の名は軍中で重んじられた。
- 海・懐・鄭の三州刺史を歴任し、青州攻略に従って上表により匡国軍節度使となった。
- 邠州の楊崇本が六万の兵で雍州を攻め美原に駐屯したとき、全忠は諸将と滄州を攻めている最中であった。知俊は命令を待たず康懐貞らとともに崇本を撃破し、首級二万、馬三千匹を得、副将級百人を捕らえた。
- ほどなく全忠が帝位に即くと、知俊を西路行営招討使に任じた。幕谷で邠・岐の兵を破った。
- 延州の高万興が反いて崇本が梁に降ると、梁主は知俊に万興とともに丹・延・鄜・坊の四州を攻め下させ、検校太尉兼侍中を加え、大彭郡王に封じた。
- 知俊の功はいよいよ高くなったが、梁主は猜疑心が強く、しばしば諸将を殺した。王重師が無実で殺されると、知俊はますます恐れて心安からず思った。
- まもなく梁主は知俊に勝ちに乗じて邠州を取るよう命じたが、知俊は軍糧が足りないと辞して出発しなかった。ほどなく河東征討を起こそうとして、宣徽使王殷を遣わして知俊を入朝させ、行営都統としようとした。知俊の弟の知浣は親軍指揮使であったが、ひそかに人を遣わして来るべきでないと止めた。そこで知俊は同州で叛いて岐に付いた。
- 兵を率いて雍州・華州を攻め、鳳翔で劉捍を捕らえた。梁主が「朕はそなたを厚く遇してきた。なぜ背くのか」と言わせると、知俊は「王重師は陛下に背かなかったのに一族が滅ぼされました。臣は徳に背くのではなく、ただ死を恐れるだけです」と答え、続いて兵をもって潼関を遮断した。
- 梁は劉鄩を遣わして知俊を攻め、あわせて知俊の甥の嗣業に招降させた。知俊は軽騎で赴いて謝罪しようとしたが、弟の知偃がこれを止め、ついに一族を挙げて岐王茂貞のもとへ逃れた。
- 茂貞は領地が狭く処遇に困り、知俊に中書令を加えて西方の霊武を攻めさせた。朔方節度使韓遜が梁に急を告げ、梁は康懐貞らに邠寧を攻めさせて救援したが、知俊は昇平で懐貞を大破した。茂貞は喜んで知俊を彰義節度使とし涇州に鎮させ、興元を攻めさせた。興州・鳳州を取り、西県を包囲した。
- のち岐の将李彦康が李彦魯を殺し、邠・寧二州を挙げて梁に付いた。茂貞は知俊に邠州を攻めさせたが、梁は霍彦威に守らせ、長く攻めても落とせなかった。
- 折しも秦州はすでに高祖の手に帰し、知俊の妻子もみな成都に移されていた。しかも茂貞の側近が知俊の功を妬んで事にかこつけて離間したので、知俊は夜のうちに親兵を率いて前蜀に亡命した。
- 高祖は武信軍節度使とし第一招討に充て、逆に茂貞を攻めさせた。翌年、また西北面都招討として岐を伐たせたが功はなかった。
- 高祖は知俊を厚遇しながらも、内心その才を忌み、側近に「私はもう老いた。私が死ねば、知俊はおまえたちの手に負えまい。早く手を打つに越したことはない」と語った。国人もまた彼を憎んだ。
- 知俊は色が黒く、生まれ年は丑であった。高祖の諸子はみな「宗」「承」を名に用いたので、里巷にわざと「黒牛が囲いを出て、棕縄が断たれる」という謡を作らせた。高祖はいよいよ彼を憎んだ。
- 折しも宦官の唐文扆がしばしばその短所を讒言したため、判官の石欽若とともに炭市で殺された。命を落とすとき、知俊は恐れおののいて助命を乞い、刑を執行する者に嘲笑された。天漢元年十二月(917年)のことである。
桑弘志
- 黎陽の人。岐王李茂貞が義児として養い、李継岌の姓名を賜った。
- 唐の昭宗の天復年間(901年〜)、岐と汴の兵を解こうとして急ぎ継岌を召して和議を協議させ、実際には李継遠・継忠らとともに密議に加わった。
- 継岌は腕力と勇気があり戦略に富み、茂貞に仕えて累進し保勝軍節度使兼侍中となった。
- 通正元年(916年)、王宗綰が宝鶏を取ると、継岌は茂貞の猜疑心の強さから内心不安を抱き、手勢二万を率いて蜀に降った。
- 蜀軍が隴州を攻めると、継岌を西北面行営第四招討とした。高祖が軍を召し返すと、継岌にもとの姓名を戻させた。
- 久しくして武定軍節度使兼中書令を領した。金州の全師朗が罪を犯すと、後主は弘志に兵を率いて討たせ、城を落として師朗を捕らえて献じた。金州の役では弘志の功が第一であった。
張道古
- 滄州蒲台の人。若くして文才があり、漢の朱雲・梅福の節操を慕った。
- 唐の乾符年間(874年〜)に王鎔の幕府にあり、景福年間(892年〜)に進士に及第し、官途に就いて著作郎となり、右拾遺に移った。
- 天子が都を追われたのち、方鎮が兵を擁して跋扈するなか、道古は上疏して「五危二乱」の七事を論じ、そのなかで「いまや劉備や孫権のような者がすでに世に生まれている」と述べた。そのため施州司戸参軍に貶された。
- まもなく左補闕として召されたが、陳敬瑄・田令孜の乱で西南への道が塞がり、また高祖に恨まれることを恐れて、姓名を変え、導江や青城の市中で占いを売って暮らした。
- 韋荘がその名を知り、節度判官に推薦した。道古はまた高祖に詩を奉って「五危二乱」の件を述べた。同僚に憎まれ、茂州に流された。
- 高祖の開国に際して武部郎中に召された。玉塁関まで来たとき、親しい者に「私は唐室の諫臣である。ついに膝を折って鶏や犬と同じ餌を食うことはできぬ。召されてもきっとまた貶されよう。死んだら関の東の不毛の地に葬り、『唐左補闕張道古墓』と題してほしい」と語った。
- 入朝すると果たして世に容れられず、ふたたび茂州に貶され、武成元年(908年)に灌州で没した。鄭雲叟は華州でその死を聞き、詩を作って弔った。一説に、道古が害されると妻も後を追って死に、高祖は憐れんで合葬させたという。
- 道古は易の彖象に深く通じ、『易題』数巻を著して世に行われた。
- 後人が彼の高祖への上書の草稿を得たが、幕僚たちが自分の才学を覆い隠して推挙しなかったと極言していた。そのため同僚の多くに憎まれたのである。
陳翔
- 博州の人。高祖が西川に鎮すると、翔を招いて掌書記とした。のち新井令として出された。
- 梁が唐を簒って高祖が自ら帝位に即こうとしたとき、翔は繰り返し逆順と禍福を説いて諭したが、聞き入れられなかった。そこで官を捨てて閬州の西水に隠棲し、そこで生涯を終えた。
鄧元明
- 梓州の人。資産は巨億に及び、富をもって郷里に雄視した。
- 光啓年間(885年〜)、高祖が閬州から来て成都を包囲したとき、軍糧が続かなかった。元明はそのつど蔵を開いて供給し、前後あわせて数百万に及んだ。
- 高祖が官を授けようとすると、元明は辞して「望みません。ただ公が一方を安んじてくださることを願います。そうでなければ両川はみな魚肉にされてしまいます」と述べた。高祖は喜んでこれを容れ、子の宏を忠州刺史とした。宏の子の隆は後蜀の時に資州刺史となった。
王先成
- 蜀州新津の人。もとは書生であったが、世が乱れて兵となった。
- 高祖が西川に入り彭州を包囲したとき、諸砦は日ごとに出撃して捕虜と掠奪を行い、これを「淘鹵」と称した。先成は心から憐れみ、諸将のうち北砦の王宗侃が最も賢明と見て、軍門を叩いて説いた。
- その論旨はこうである。彭州はもと西川の管轄であったが、陳敬瑄・田令孜が楊晟を招いて四州を割いて与え、ともに朝命に抗した。いま陳・田は平定されたのに晟はなお彭州に拠っている。州の民はみな西川こそ本府であり司徒(高祖)こそその主だと知っている。だから大軍が来ても城に入らず山谷に逃れて招安を待っている。ところが軍が着いて数日たっても招安の令が聞こえず、そのうえ軍士が財貨を奪い家畜を追い立て、老弱や婦女を分けて奴婢としている。父子兄弟は離散して怨み、山中の者は暑さと雨にさらされ蛇や虎に傷つけられ、孤独と飢渇のなか訴える先もない。彼らははじめ楊氏を主でないとして従わなかったが、いま司徒が憐れみをかけないなら、かえって楊氏を慕うようになるであろう。
- 宗侃ははっと驚き、床を近づけて策を問うた。先成は七か条を挙げて高祖に上申するよう請うた。
- 百姓に招安を布告すること。
- 諸砦の軍士および子弟が一人たりとも「淘鹵」に出ることを禁じ、砦の周囲七里以内を標示して樵採と放牧を許し、標を越えた者は斬ること。
- 招安寨を設け、数千人を収容して招いた百姓を住まわせること。
- 招安の事は一人に総括させて百姓の疑心を避けること。宗侃に帖を下してこれを専管させること。
- 四砦の指揮使に厳命して、これまでに掠奪した彭州の男女老幼をすべて捜し出して営場に集め、父子兄弟夫婦で名乗り合う者があれば互いに従わせ、一人でも隠し持つ者は斬ること。
- 招安寨の中に九隴の行県を置き、前の南鄭令王丕を県令代行として役所を設け、百姓を撫し治めること。壮健な子弟を選んで帖を与え、山に入って親戚を呼び寄せさせること。掠奪が厳禁され、以前に捕らわれた者も安堵を得たと知れば、皆連れ立って山を下り、子が母のもとへ帰るように日を経ずして出てくるであろう。
- 彭州の土地は麻に適しており、百姓が山に入る前に漚して蔵しておいた麻が多い。各自を田里に帰らせて漚した麻を出させて売り、生活の資とさせれば、しだいに生業に復するであろう。
- 高祖はこれを得て大いに喜び、上申の通りに実行させた。三日で民は争って招安寨に赴き、しだいに生業に復した。
- 乾寧元年(894年)、高祖が彭州を攻めてなお落とせずにいると、先成は龍尾道を築いて女牆に接続することを請い、そのまま城壁を伝って登った。楊晟は殺され、彭州は平定された。
- のち功を論じて累進し、夔州刺史となった。
- 永平四年(914年)、荊南の兵が夔州を侵すと、先成はこれを撃退した。
- 当時、嘉王王宗寿は鎮江軍節度使を領していたが、先成が功を誇って侮慢であるとして深く憎んでいた。折しも先成が甲を請うたところ、白布の袍を与えた。まもなく荊南の兵が敗走すると、先成はひそかに人を遣わして甲を与えられなかった事情を奏上させた。宗寿はその使者を捕らえ、先成を召して斬ってから奏上した。高祖はこれによって宗寿に激怒した。
張扶
- 字は子持、広都の人。博学で文辞に長けた。武成初(908年)、幕府の書奏・箋檄はすべて扶が起草した。官は兵部郎中に至った。
- 当時、王宗佶は高祖の養子であることを恃んで驕り高ぶり、法を守らなかった。ある日、高祖が群臣を宴して側近に「韓信のような者が一、二人いて将としてくれれば、中原も平定するに足らぬ」と言った。宗佶は跪いて「臣は不才ながら、自分では鞭ひとつで天下を取れると思っております」と述べた。
- 扶は進み出て「陛下は雄才大略をお持ちでありながら、なお岐や隴の一寸の土地も得られておりません。宗佶ごとき小僧の狂言です。陛下、中原など気になさいませぬよう」と言った。宗佶は大いに恥じて恨み、ひそかに料理人に毒を仕込ませて扶を毒殺した。
- のち宗佶が死ぬと、扶に諫議大夫が贈られた。
李道安
- 爵位も出身地も不明。高祖の時、倉の穀物が虫に食われた。道安は上疏した。
- その趣旨は、倉廩は国の本、糧食は民の命であり、本を固めれば国は安く、命を重んずれば民は富む。いま穀物のなかに蜂や蠍が生じているのは、在位の者が貪欲卑劣で民の農時を奪い人命を損なっているために、天が災異を下して警告しているのではないかと疑われる。また虫がみな米を引きずって行くのは、辺境が安からず戦が突如起こり、輸送が絶えず民が命令に堪えられなくなる兆候ではないか。どうか聖慮をめぐらせ、大臣とともに恐れ慎んで身を修め、災異を消されたい、というものであった。
竇雍
- 出身地は原本で欠字。若くして清廉の節と高い名声で知られ、給事中を歴任した。
- 内侍監の厳遵美が死んだとき、慣例により冊贈があり、朝廷は雍にこれを主宰させた。雍は宦官の冊贈使となることを恥じ、固く命を承けなかった。当時の人はみなその節操に感服した。
劉隱辭
- 出身地は原本で欠字。高祖に仕えて累進し員外郎となった。
- 王宗憲が寧江に鎮したとき、隠辞を節度掌書記に招いた。宗憲は武人上がりで、しきりに搾取を事とし横暴が多かった。隠辞はたびたび諫めたが、宗憲は不快に思い、賓客としての礼を失い、将吏の前で叱りつけた。
- 隠辞が辞職を求めても許されなかったので、「白塩山」「灔澦堆」の詩を詠んで諷刺した。宗憲はこれを聞いて怒った。
- ある日、宗憲は川辺で酒に酔い、白塩山を仰ぎ見て灔澦堆を横目に「小生意気な書生めが、ここで死にたいらしいな」と言い、壮士に命じて隠辞を席から引きずり出させ、手足を縛って砂利の上にさらした。護軍や幕僚が手を尽くして救おうとしたが、かなわなかった。
- 宗憲が側近に「私が飲み終わったら川に投げ込め」と言うと、隠辞は声を張り上げて「昔、鸚鵡洲は禰処士を溺れさせた。いま灔澦堆は劉隠辞を害そうとする。私は禰衡に及ばぬが、あなたはどうして黄祖と同じ真似をするのか。天子が塗炭にあるのを顧みず賢良を害する者があってよいものか。ただ名を残せるなら死んでも本望だ」と言い放った。
- 宗憲の怒りはしだいに解け、しばらくして釈放した。翌日、軍府の者たちが宗憲に隠辞を召して詫びるよう請うたが、隠辞は病と称して逃げ帰った。
蔣詔恭
- 蘇州の人。剛直な性格で並外れた才があった。永平年間(911年〜)に流浪して西川に入った。
- 詩を詠むたびに諷刺が混じった。高祖の晩年、臣僚の多くが権勢を尚び驕り高ぶって節度がなかったので、詔恭は詩を作って諷した。高祖は詩を見て大いに喜び、「あえて物を言う士だ」と言って特に名山令を授けた。また職務に巧みであったので銀緋を賜った。
李景
- もと無官の庶人。高祖の時に封事数千言を奉り、要点を的確に突いていたので、眉山主簿に抜擢された。
- その辞令には「その忠誠の心を旌し、鬚髯の職を委ねる」とあった。その後の消息は不明である。
史論
- 張道古は堅剛の節を持し、百たび折られても屈しなかった。陳翔は帝位に即くことに力を尽くして反対し、馮涓の意と通じ合う。蜀漢の費詩に次ぐ人物である。
- 鄧元明は慷慨して喜んで財を出しながら官爵を貪らなかった。王先成は策を携えて軍門に立ち利害を陳べた。張扶は面と向かって強臣を斥け、李道安は災異について率直に論じ、竇雍は宦官の冊贈使の命を固辞した。いずれも記すに足る際立った人物である。
- 劉隠辞は剛情ゆえに禍を招いたが、虎口を免れたのは幸運であった。
- 蔣詔恭・李景の、時勢を譏り主君を諷する言が、かえって「よく言った」との賞を受けたのは、二人の張(道古・扶)の遭遇と何と違うことか。これも天命というものであろうか。
劉纂
- 桐廬の人、一説に長沙の人。唐の左拾遺劉蛻の子。蛻は言論で令狐綯と衝突し、潼川に仮寓した。
- 纂は高祖父子に仕え、礼部尚書を歴任した。
- 蛻は臨終に際して父の訓戒を述べ、「窮達はおまえに望まない。私が没したのち、決して祭祀をするな」と纂を戒めた。纂は蛻の意を心に刻み、かなり恬淡として生涯を終えた。
- 国が滅んだのち、ふたたび孟氏に身を寄せた。天成四年(929年)に「遂州文宣王廟記」の碑を撰し、蜀の人はみなこれを称えた。
崔善
- 武成年間(908年〜)に閬州刺史となり、恵み深い政治を行った。州の人は官署の東に徳政碑を建て、通りかかる者の多くが慕った。
仲廷預
- どこの郡県の人か不明。古典に広く通じたが生業に励まず、常に飢寒に苦しんだ。嘉王王宗寿の塾師となったが、名は知られず、宗寿にも礼遇されなかった。
- 寒い時節、嘉王府から古い火器(火鉢の道具)が学院に支給された。廷預がひとり座っていて、たまたま箸で灰をかき混ぜたところ、金の火箸二本が出てきた。
- ただちに宗寿に面会を求めたが、宗寿は何か無心があるのだろうと思ってすぐには会わず、固く請われてしぶしぶ会った。
- 廷預は袖から金の箸を取り出し、いきさつを詳しく述べた。宗寿は「我が家がこれを失ってからもう十年になる。公はそれを拾いながら返してくれた。まことに古人のような人だ」と言い、厚く贈り物をさせた。
- まもなく推薦されて栄州録事参軍を授かった。
李仁表
- 若くして詩に長じた。唐末に許州に寓居した。当時、尚書の薛能が節度使であった。
- 仁表が自作の詩を清書して献上しようと、机に凭れて選び整えていると、戴勝の鳥が軒から飛び込んできて翼を広げて舞った。仁表は不思議に思った。
- 翌日、能に詩を投じたところ、大いに礼遇された。数日後、能は娘を仁表に嫁がせた。
- 高祖の開国後、仁表は成都に来て累進し、刑部侍郎に至って没した。
姜誌
- 許田の人。幼くして黄巣の兵に掠われ、父母と離ればなれになった。高祖に従って征伐に加わり、たびたび戦功を立て、官は武信軍節度使に至り太師を加えられた。
- これより先、姜春という馬飼いが誌に長年仕えていたが、たびたび鞭打たれていた。年老いて鞭に堪えられなくなり、泣いて誌の妻に故郷へ帰らせてほしいと願い出た。
- 妻は憐れんで郷貫と身寄りを尋ねた。すると「もと許昌の人で、一人の男子が掠われて蜀に入り、生死も分からない」と言い、その子の幼名と、足に黒子が一つあることを述べた。まさに誌の父であった。
- 誌はこれを知って大いに泣き、ひそかに人を遣わして父を剣門の外へ送り出したうえで、高祖に「臣の父が近ごろ関東から参りました」と奏し、金帛と車馬を用意して邸に迎え入れ、父子はもとのようになった。さらに父に杖を渡し、自分の背を打たせて長年の過ちを贖った。
- これによって数万人の僧に斎を施し、生涯、従者を打つことがなかった。
韋巽
- 唐の太尉韋昭度の子。生まれつき聡明ではなかったが、高祖は昭度の縁で寛大に遇し、卿監まで歴任させた。
- ある同僚に「三公の門前から死んだ犬が出る」と譏られると、巽は「死んだ犬の門前から三公が出る」と答えた。その鈍さはおおむねこの類であった。
劉檀
- もとの名は審義。高祖に仕えて累進し員外郎となり、清廉で有能との評があったが、のち職を退いた。
- 夢に喪服の人が現れて檀香の木に登らせ、「君よ、早く登れ」と言って懐から緋の衣を出して着せた。そこで今の名(檀)に改めた。
- まもなく蜀州の某刺史が評事の杜充を副職に補すよう奏し、勅により充は殿中侍御史内供奉を兼ね緋を賜った。ところが充は父の喪に遭って赴任せず、檀を挙げて自分の代わりとした。
- 当時、檀は閑居して困窮し官服を揃えられなかったので、充は緋の袍一揃いを贈った。まさに夢と符合したという。
杜何
- 唐の駙馬杜悰の子。取り立てて才芸はなかったが、貴族の出であることから高祖に仕えて博士となった。
- 常に官が低いことを恥じ、執政のもとへ出向いて書を呈し、自らの家柄を述べた。「昔年、朝貢に入ったときには花樹の家柄の韋吏部(韋荘)の先徳の前に列していたのに、いま名簿では新津の馮長官の末子(少常の鋭乜)の後ろに置かれている」と。執政は憐れんで慰めた。
温顗
- 唐の助教温庭筠の孫。父の温憲は光啓年間(885年〜)に山南従事となった。李巨川が憲を推薦する表を草したとき、庭筠の不遇を切々と述べ、「蛾眉はまず妬まれ、明妃は国を去る人となった。猿臂はみずから傷み、李広は侯に封じられぬ将となった」と記した。
- 顗はよく家業を継ぎ、幽玄な題材を絵に描くことに長じた。高祖に仕えて常侍に至って没した。
房諤
- 唐の宰相房玄齢の九世の孫。父の房重は新都令であった。諤は高祖父子に仕えて累進し太常少卿となった。子は四人あった。
費宗陶
- 広都の人。代々成都の名族であった。武成年間(908年〜)、弟の叔熊とともに顕官に就いた。
王朴
- 綿州魏城の人。父の王助は唐の進士に及第し文章に長じた。かつて「魏城県道観碑」の文を撰し、刺史薛逢に賞されたが、のち失明して官を退いた。
- 朴もまた文をよくし、高祖に仕えて翰林学士に至った。
趙雄武
- 蜀の人。名だたる郡を次々に治め、豪奢は当代随一であった。
- 食事に料理人を用いず、六局それぞれに二人の婢女を置いて働かせ、厨房に立つ者は十数人、いずれも華やかな衣に細い袖であった。客を招くたびに必ず山海の珍味を揃え、それを常とした。
- また大餅を作るのが巧みで、三斗の小麦粉でひとつを作ると、数間の部屋ほどの大きさになった。大内での宴や豪家の大宴があると一枚を献じ、切り分けても使い切れなかった。当時の人は雄武を「趙大餅」と呼んだ。
王鄂
- 唐の尚書王鄑の弟。鄑は長安の乱離のとき一家を連れて蜀に来た。嘉陵江に沿って利州の百堂寺の前を通ったとき、鄂は七歳であったが、突然「私はかつて経一巻を持っていて、寺内の石龕に納めた」と言い出した。家人にそこへ行かせて取らせた。
- 寺の僧は「これは我らの童子だ」と言い、その童子が早世した年月を数えると、鄂の生年月日とちょうど符合した。
- 鄂はのち高祖に仕えて令録に至り、雅州で没した。
劉隱
- 成都の人。自ら語ったところによれば、若いころ西川監軍使の書状を携えて黔・巫の南、いわゆる南州へ赴いた。
- 南州は山が多く道は険しく、荊棘に覆われ、貴賤を問わず杖をついて歩く土地である。南州に近づくと、州の官が書を送って出迎えた。籠を背負った一人が来て、隠を籠に入れ、手を振りながら進んだ。山に登り谷に入るところはみな高く深く、指の爪で寸ごとによじ登って進んだ。
- 到着すると諸大校に謁見したが、歓迎の心はまことに厚かった。そこで子牛を一頭煮たが、まず子牛の腸の細かい糞を取って皿に置き、ゆっくり箸で酢に溶き入れてから牛肉を食べた。彼らはこの細糞を「聖虀」と呼び、これがなければ客をもてなす膳は整わないという。
- 料理が半ばまで進むと、次に「麻虫の裹蒸」が出た。裹蒸とは、麻や蕨の蔓の上にいる、今でいう刺猱のような虫を蓮の葉で包んで蒸したもので、それゆえこの名がある。
- そのほかの風俗も、蜀中とは大きく異なるものが多かった。