十国春秋卷四十一 列傳 楊玢

楊玢

  • 楊玢は(欠字)の人である。髙祖の時代、宰相張格に取り入り、官を重ねて礼部尚書に至った。後主が位を嗣ぐと、格はすでに茂州に貶されており、玢もその党であるとして榮経の県尉に謫せられた。乾徳年間、再び太常少卿となった。ちょうど応聖節(後主の誕生の祝日)にあたり、得賢門に山棚(飾りの棚)を並べたところ、暴風が吹いてこれを地に崩し落とした。翌日には応聖堂に雷が落ち、二本の柱を打ち砕いた。玢は上言して言った。「陛下がお生まれになった日に山が崩れたのは、『崩れず騫(そこ)なわず』という吉兆の義に反するものです。得賢門で起きたことは、陛下の用いる人が賢者を得ていないことを示すものです。応聖堂の柱が雷に打たれて崩れたのは、陛下の柱石たる臣が材のある者でないことを示すものです。」後主はまったく気にとめず、ついに亡国に至った。

史論

  • 論じて言う。二人の毛氏(毛文錫・毛文晏)は文才が輝かしく、著述するところも多い。二人の潘氏(潘炕・潘峭)は吏事に敏く、大局をよく心得ていた。まことにいわゆる「玉友金昆(ともに優れた兄弟)」というべきである。凝績は他人の隙をつくことを能事とし、その度量にはいくらか難があった。楊玢は初め朋党に与して謗りを受けたが、終わりには直言をもって過ちを補った。晩節を全うできたに近いというべきであろう。