十国春秋卷四十 列傳 山行章

山行章

  • 山行章は一名を章といい、みずから晋の山濤の子孫であると称した。唐末、眉州刺史となったが、州にはもとより羅城(外郭城)がなかったので、行章は五県の力を合わせてこれを築き、周囲八里余りとなり、これを「卧牛城」と名づけた。陳敬瑄の乱に際し、行章は新繁で高祖を拒んだが、軍は敗れ、さらに広都で高祖に破られた。まもなく降伏を願い出て、高祖の幕下に属し、戦功をあげた。高祖が成都を包囲していたとき、ふと青衣の神が大きく口を開ける夢を見、行章に問うたところ、行章はこう答えた。「青衣とは蜀の地名であり、砦の中にはもともと青衣祠があります。今、成都では子を交換して食らい、城壁を守って泣き叫び、祠廟は久しく祀られておりません。神が口を開くのは、土地神が公に祭祀を求めているのであり、また唇歯(口先の意)を開いて心腹(本心)を露わす兆しでもありましょう。」まもなく十日余りが過ぎ、成都は果たして降伏した。乾寧四年、都押牙を授けられ、黎州に出鎮した。これより先、黎・雅の間には劉王・郝王・楊王と称する未開の異民族の首領がいて、西川は毎年、絹帛三千匹を給し、南詔の虚実を探らせていた。長い間に、辺境の将の多くが諸蛮と気脈を通じ、これを重んじさせる材料としていた。この時に至って高祖が旧来の下賜を絶ったところ、行章が諸蛮と交通していた実状を厳しく調べ上げ、ついに斬に処してさらし者とした。