十国春秋卷三十九 前蜀五 列傳 王宗朗

王宗朗

  • 王宗朗はもと姓を全、名を師朗といい、金州の人である。唐の昭信節度使馮行襲が金州に拠っていたが、師朗はその戯下に居り親校であった。王宗賀が行襲を攻めると、行襲は均州に奔り、師朗はそこでその城をもって降った。髙祖はその功を嘉して姓を王氏、名を宗朗と賜り、諸子とともに文を連ね、金州観察使に補され、渠・巴・開の三州を割いてこれに隷属させた。三か月居て、金州はまた行襲に取り返された。宗朗は守ることができず成都に奔ったが、まもなく蜀の兵はまた金州を克ち、そのまま宗朗を刺史とした。武成三年、宗朗は洵陽県の洵水のほとりに青烟の廟がありと奏し、数日間廟の上は烟雲が昏晦し、昼夜楽を奏する声がした。たちまち水波が騰躍し、群竜が水上に現れ漢江に入った。大きなものは数丈、小さなものは丈余で、あるいは黄あるいは黒あるいは赤あるいは白あるいは青で、牛馬驢羊のような形をしており、大小五十が連なって次いで漢江に入り、廟のあたりを行き来すること数里、あるいは隠れあるいは現れて三日にして止んだ。まもなく金州を改めて雄武軍とし、宗朗は本軍節度使兼中書令を領した。後主の時、罪により官職を削奪され、姓名を旧に復された。桑弘志に命じて兵を率いてこれを討たせ、まもなく成都に捕えて連れ帰りその罪を釈した。しばらくして病で卒した。