王宗儔
- 王宗儔は髙祖の養子である。屡々戦功があり、家より起こって排陳使となった。武成の時、秦州留後を授けられ、まもなく天雄軍節度使兼侍中を授けられた。乾徳三年、山南節度使に擢され西北面都招討行営安撫使に充てられ、兵を率いて岐を伐ち、隴州を攻め進み、また上邽に屯したが、師は久しくして功がなかった。まもなく唐は客省使李厳を遣わして来聘し、厳は盛んに唐の威徳を称え天下を混一する志があると言い、かつ「朱氏が簒竊するも諸侯にはかつて勤王する師を興す者がいなかった」と言った。宗儔はその言葉が譏刺(あてこすり)に渉ると考えこれを斬るよう請うたが、後主は従わなかった。まもなく後主の荒淫はますますひどくなり、宗儔は宗社(国家の祭祀=国家)が祀られなくなることを憂え、密かに王宗弼と伊霍の挙(伊尹・霍光のように主君を廃立する挙)を謀ろうとしたが、宗弼は猶予して決しなかった。宗儔は憂憤して卒した。宗弼は枢密使宋光嗣・景潤澄らに「宗儔は私に爾曹を除けと頼んだが、今はもう患いがなくなった」と言った。光嗣らは伏して泣いて謝した。宗弼の子承班はこれを聞いて人に「わが家はその難を免れがたいであろう」と言った。
- 宗儔が岐を伐ったとき、常に白石鎮に還ったが、副招討王宗信は普安禅院に宿り、まさに伎女十余人を擁してそれぞれ牀に拠って寝ていた。たちまち一人の姫が躍り込んで火炉の中に入り、熾(さか)んな炭の上でのたうち回るのが見えた。宗信は急いで起きてこれを救ったが、履や服の間には少しも焦げた跡がなかった。またまもなく一人の姫が同じように飛び込んだので、また前のようにこれを救った。もろもろの伎女はあるいは出あるいは入りして、みな迷懣して声を失った。ある親吏が驚いてこれを宗儔に告げ、宗儔が至ってその臂を提げて連れ出すと、衣裾には少しの損傷もなかった。その故を訊ねると、みな驚き覚めて「蕃僧に捉えられて火の中に入れられ戯れられたのです」と言った。宗信は大いに怒り、もろもろの僧をことごとく捜し出して前に立たせ、伎女らにこれを識らせたところ、周和尚という身が長く面に髭がある者がおり、群れが指して「これがそうです」と言った。宗信は幻術ではないかと疑って百回鞭打たせたが、まったく解き明かせなかった。宗儔はその冤罪であることを廉(さと)って釈放させたが、ついに何の怪であったか分からなかった。