十国春秋十國春秋卷三十二 南唐十八 裴長史・徐幼文・占夢僧・呉廷紹・李廷珪ほか方技と伶人

裴長史

  • 裴長史、名は伝わらない。新羅国の人で、中華の文化を慕って帰化し、建州の城中に住まわされた。「長史」はその本国の官称である。
  • 後主の朝、金陵が危機に瀕したとき、建州通守の査元方が裴の術に通じるのを知り、金陵に赴かせた。五月、歙州まで来たところで、裴は病と称して先に進まず、刺史の龔慎儀と監軍の軫鎬に密かに告げ、金陵のことについて五か条を上奏に添えてほしいと述べた。
  • その五か条は次の通り。一、金陵は立春の節の後に災いがあるが、静かにしていれば無事である。二、潤州城は九月に陥落する。三、朱令贇の気運は池州を越えない。四、江州は血の気が城を覆う。五、翌年の春末から夏の初めにかけて血が原野を塗る。
  • のちにすべてその通りとなった。

徐幼文

  • 徐幼文は索紞の占夢の法を得ており、人の吉凶を判断してしばしば的中した。
  • 馮延魯の子の僎が進士に応じたとき、ある夜、崇孝寺の幡刹のいちばん高いところに登って方響を打つ夢を見た。幼文に尋ねると、幼文は「音がしても評判が立っても、結局は地に降りるだけだ」と言った。
  • 翌年、僎は及第した。当たらなかったとそしる者があったが、幼文は「まことに私の言った通りだ。後になれば分かる」と言った。数日もせず、中書が「試験官の人選が不当だった」と奏し、榜を取り消して御前で再試験したところ、僎は果たして落第した。

占夢僧

  • 占夢僧はどこの人か分からない。馮延巳が臨川に鎮していたとき、朝議ですでに交代が決まったと聞いた。ある夜、舌に毛が生える夢を見た。僧はこれを解いて「毛が舌に生えたら剃るわけにはいきません。相公はまだ交代なさらないでしょう」と言った。十日ほどして果たして交代の命は取り止めになった。

呉廷紹

  • 呉廷紹は太医令であった。烈祖が飴を食べて喉を詰まらせ、国の医師はみな治せなかった。廷紹はまだ無名だったが、一人「楮実湯を用いるべきだ」と言い、一服進めると病は消えた。
  • 馮延巳が頭痛に苦しみ、数日たっても治らなかった。廷紹は密かに厨人に「相公は日ごろ何を好んで召し上がるか」と尋ね、「山鶏や鷓鴣を多く召し上がります」との答えを得て、「分かった」と言い、甘豆湯を与えると治った。
  • 医師たちは黙ってこれを覚えたが、後日用いても多くは効かなかった。訳を問われると、廷紹は「喉の詰まりは甘い物から起きたので楮実湯で治した。山鶏も鷓鴣も烏頭や半夏を食べるので、甘豆湯でその毒を解いたまでだ」と答えた。聞く者はみな感服した。

李廷珪

  • 李廷珪は墨を作るのに巧みで、父の超とともに易水から江南に来て歙州に定住した。もと姓は奚であったが、のち李の姓を賜った。廷珪の弟の廷璋、子の文用もみなその業を継いだが、多くは廷珪に及ばなかった。
  • 江南では澄心堂紙・竜尾硯と廷珪の墨を「文房三宝」とした。
  • 当時、ある貴族が誤って廷珪の墨を一丸、池に落とし、水で駄目になったと思ってそのままにしていた。一月余りたって池のほとりで酒を飲んでいるとき、たまたま金の器を落としたので、泳ぎの得意な者に潜って取らせた。そのとき落とした墨も一緒に上がってきたが、光沢も色も変わらず、表も裏も新品のようだった。それ以来、世の人は宝として蔵することを知ったという。

御厨

  • 御厨は姓名が伝わらない。旧唐の長安の人である。中使に従って江表に来たが、崔胤が北司(宦官)を誅したと聞いて亡命し、御厨は留まって呉に仕えた。
  • 烈祖の受禅後、御膳や宴の設営はこの人に頼り、おおむね中朝の太平の遺風があった。その料理には鷺鷥餅・天喜餅・駝蹄餤・春分餤・密雲餅・鐺糟炙・瓏璁餤・紅頭簽・五色餛飩・子母饅頭などの製法があり、当時、精妙の極みと称された。

楊花飛・楊名高

  • 楊花飛は保大初年、楽部にいた。元宗は即位したばかりで血気盛んで、内寵に心を寄せ、私宴や打毬に明け暮れる日々だった。
  • あるとき酔って花飛に水調の詞を奏させて酒を勧めさせたところ、花飛はただ「南朝の天子 風流を愛す」の一句だけを歌い、それを何度も繰り返した。元宗は悟って杯を伏せ、大いに喜び、敢えて諫言したことを表彰して金帛を厚く賜り、「孫皓や陳叔宝の二主がこの一句を聞いていたら、璧を銜えて降る辱めを受けずにすんだであろう」と言った。
  • 翌日から諸々の宴遊を取りやめ、政務に精励し、閩を図り楚を弔って、ほとんど強大な覇者となるところまで行った。
  • 当時また楊名高という者があった。本名は復で、名高は俳優としての芸名である。黄幡綽に託して『笑林』を著し、かなり世に行われたが、辞が下卑ているので載せない。

李家明

  • 李家明、廬州の人。楊花飛と同じ仲間で、機知と滑稽に巧みだった。
  • 保大初年、晋王・李景遂らはみな皇弟として爵を加えられたが、恩は臣下に及ばなかった。家明は宴の日に、翁と媼が並んで座り、婦人たちが飲食を運んで何度も拝礼するという寸劇を演じた。翁と媼は怒って「身内の官、身内の家だ。何度も拝む必要があるか」と言った。元宗は笑って「私は国主なのに恩が外に及んでいないな」と言い、これによって百官の官階が差をつけて進められた。
  • あるとき元宗に従って後苑に遊んだ。元宗が台に登って鍾山を望み「雨がすぐ来るぞ」と言うと、家明は「雨は来ても城には入れますまい」と言った。元宗が怪しんで訳を問うと、「陛下の重い税を恐れているのです」と答えた。元宗はそこで専売の役所に命じて税を半分に減らさせた。
  • 宋斉丘はただ一人の子を亡くし、一月余りも悲嘆にくれた。斉王・李景達が慰めても止まなかった。家明は「これは簡単に諭せます」と言い、紙鳶を作ってその上に大きく「一子すら捨てられぬなら、譲皇の百口はどうする」と書き、斉丘の庭に落とした。斉丘は取って読み、涙を収めて出てきた。
  • 鄱陽王・王延政が金陵に来たとき、公卿が邸で宴を催した。延政は下賜を惜しんだので、家明は戯れて「賤しい職人の私には芸がありません。大王に一つだけ物をお願いします。大殷(閩)の平天冠はもう用がありますまい。私が頂戴して俳優の衣装にしとうございます」と言った。延政は黙り込み、不快のあまり病んで薨じた。
  • 元宗が江北を失い南都に遷ったとき、竜舟が趙屯に至った。杯を挙げて皖公山を望み「よい青々とした峰だ。何という山か」と言うと、家明は「これは舒州の皖公山です」と答え、詩を献じて「皖公山は縦い好しとするも、御觴の中には落ちず」と詠んだ。元宗は嘆息して酒をやめた。
  • 後主のとき、家明は老いて寵を失った。

王感化

  • 王感化、建州の人。歌がうまく、声韻は悠揚として、清らかに林の木々を震わせた。はじめ光山の楽籍に属し、のち金陵に入って楽部に加わり歌板色となった。保大年間、絶大な寵を受けた。
  • 元宗が暑い時期に北苑で宰相の厳続らと小宴を催したとき、老いた牛が大樹の陰で休んでいた。楽工に詠ませると、感化はすぐさま進み出て「困じて臥す斜陽 枯草を噍む、近来 喘ぎを問う 更に人なし」と詠み、続らは恥じ入った。
  • 元宗はかつて浣渓沙二闋を作って自ら書き感化に賜った。「菡萏 香銷え 翠葉 残る」と「手に珠簾を捲きて玉鉤に上す」がそれである。後主が即位すると、感化はその詞の書を献じ、後主は感動して手厚く賞した。

李冠

  • 李冠は散楽の者である。洞簫を吹くのに巧みで、その音は悲壮で雲に届くほどだった。元宗が召して教坊に属させようとしたが、軍事が起こって果たせなかった。まもなく元宗が没し国家に多事が続いて、音楽の事はついに衰滅した。
  • はじめ司徒の李建勲は音を解する者として知られていたが、冠に出会って絶賛した。建勲が死ぬと冠は寄る辺を失い、北に渡って梁・宋のあたりを流浪した。酔うたびに市の楼に登って数曲を奏し、聴く者は暗然とした。人々は天宝末の李亀年になぞらえたという。冠は「冠子」とも記す。

彭利用

  • 彭利用、広陵の人。周軍が淮南を下すと南に奔り、廬陵に仮寓した。
  • 素朴だが野暮な性格で、くつろいでいるときも家人や幼い子を相手に、必ず書物や史書を引き、章を断ち句を切って日常の話に代えた。俗にこれを「掉書袋(書袋を振り回す)」といい、そこで「彭書袋」と呼ばれた。
  • あるとき姓を問われると「隴西の遺苗、昌邑の余胄」と答えた。また住まいを問われると「生まれは広陵より、長じては螺渚に僑る」と答えた。
  • 下男が過ちを犯したとき、利用は責めて「始め我はこれを紀綱の僕と為し、人 其の身を百にせん、爾の同心同力に頼りて、之を左にし之を右にせんとせり。今すなわち中道にして廃し、侮り慢りて自ら賢とす。今より後、過ちて改むるなくんば、予は当に公に循い私を滅し、諸を市朝に撻ち、汝の自西自東、以て遨び以て遊ぶに任すのみ」と言った。
  • また父が死んだとき、客が来て弔いを述べると、「家君 不幸にして短命、諸子は四方に餬口す。帰りて相如の壁の空しきを見、仲堪の棺の実つるを余す。まことに痛心疾首すべく、寒からずして慄う」と答え、そのまま慟哭した。
  • 隣家が火事になり、利用が助けに行ったが、ゆっくり眺めて「煌煌然たり、赫赫然たり、嚮邇すべからず。燧を鑚りて以降、いまだ斯くのごとく盛んなるはあらず。それ撲滅すべけんや」と言った。
  • また客と遠出したのに、告げずに引き返し、翌朝また来た。訳を問うと、「たちまち思う、朱亥の椎は猶お陳平の戸に倚る。切に恐る、数鈞の重み、転じて六尺の孤を傷つけんことを」と答えた。その物言いは俳優の戯言のようで、こうした例が多かった。
  • 利用は進士に応じたが、これがもとで六度上京しても及第しなかった。六十一歳のある夜、宴のあと寝ていて没した。