五言金城
- 劉洞は廬陵の人である。若くして廬山に遊び陳貺に詩を学び、精思して怠らず、あるときは十日以上も洗面しないほどであった。廬山に居ること二十年、五言律詩に長じ、自ら「五言金城」と号し、賈島の遺法を得た。
- 後主が嗣位すると、とりわけ詩人に意を寄せた。ある人が洞のことを言うと、洞はそこで詩百篇を献上し、巻の首に「石城篇」を置いた。その詞は「石城古渡頭、一望思悠悠、幾許六朝事、不禁江水流」であった。後主はこれを読んで感傷し不快な様子が長く続いた。
- これにより棄てられ、洞もまた再び顧みられなかった。金陵が囲みを受けると、洞はなお城中にあり、道端に「千里の長江皆渡馬、十年の養士何人を得たる」と署した。国が亡ぶと、洞は故宮闕を過ぎり、徘徊して詩を賦し感慨悲傷することが多かったが、不遇であるからといって怨懟の語を作ることはなかった。開宝八年に卒した。遺集があり世に行われる。
- 同時代に夏寳松もまた廬山に隠れ、互いに詩友となった。洞には「夜坐」の詩があり、寳松には「宿江城」の詩があり、いずれも当時称された。百勝節度使の陳徳誠は常にこれを美める詩を作り、「劉夜坐」「夏江城」と号したという。
- 寳松は吉陽の人で、若くして江為に詩を学び、江為が旅にあって病に伏したとき、寳松は自ら薬餌を嘗め、夜も帯を解かずに看病し、そのように事えること数年、その秘(詩法の奥義)をことごとく明かされた。寳松は詩に善くしたといえども性は貨を貪り、弟子に教授するたびに未だかつて講義に応じたことはなく、ただ資帛の厚い者にだけ私かに指導を授け、しかも「詩の旨訣は私に一つの瓢箪があり、これを値をつけて売るつもりだ」と偽って言った。これにより私かに賄賂をする者が多かった。当時また張迴という者があり、苦しんで詩を吟詠していたが、ある夜五色の雲を呑む夢を見て、そのまま雅道(詩作の技巧)に精通した。