政績と使臣としての立場
- 陸昭符は初名を匡符といい、金陵の人である。保大中、常州刺史の官にあり、呉越の要衝に当たって屡々交兵し、城邑は荒残していたが、匡符は政を寛簡(寛容簡素)に行い、逃亡者を招き入れ、まもなく富み栄えた。
- ある日、庁事に座っているとき、雷雨が突然至り、電光は金蛇のように梁を巡り、吏卒はみな驚き倒れたが、匡符は案を撫でてこれを叱ると、雷電はたちまち止んだ。案の帷(とばり)を挙げると、鉄索が重さ数百斤も見つかったが、匡符は顔色も変えず、徐(おもむろ)に索を挙げて庫の中に貯えさせた。
- 交泰元年、元宗が既に周に藩を称すると、この秋、匡符に進奏使を命じ大梁に邸を置いた。宋が周の禅を受けると、匡符は太祖の名を避けて改名し「昭符」とした。後主が嗣位すると、宮門に金鶏竿を立てて赦を降すこと天子の礼のごとくしたので、太祖はこれを聞いて怒り、昭符を召して詰った。その色は甚だ厳しかったが、昭符はおもむろに鄙語(さりげない言い訳)をもって答え、太祖は笑って問わなかった。
- この時、潘慎修が入貢使となっており、昭符もまた常に金陵に往来していた。たまたま帑蔵(国庫)が空竭し物数を弁じ難くなったとき、昭符は富民の石守信の家に市(あきな)うよう請い、絹十万疋を得た。後主は大いに悦んだ。
- 宋太祖が既に李穆を遣わして後主を入朝させようとしたとき、昭符に「あなたはあなたの主が来ると思うか」と問うと、「君命で召せば、車を待たずに参ります。来ないことがありましょうか」と答えた。後主が病と称するに及び、宋の軍が討伐すると、昭符はまた太祖に「臣の主は必ず社稷に死ぬでしょう」と言った。まもなく後主が降ると、邸を罷め置き、調(官職)を得られず卒した。