十国春秋卷三十 南唐十六 列傳 盧絳

要約

盧絳は字を晋卿といい宜春の人で、初名は衮といったが晋の魏絳を慕って改名した。進士に及第せず庫の金を盗んで亡命し、白鹿洞書院でも屠殺・行商や書生からの恐喝、賄賂の強要を重ねて悪名高く、諸葛濤・蒯鼇とともに「廬山三害」と称された。倉に忍び込んで米を盗んだり大寒に軒のたるきを折って暖を取ったりする無頼ぶりも伝わるが、枢密使陳喬に上書の弁舌を認められて登用されると、沿江巡検として亡命者を集めて水戦を習わせ、呉越軍をしばしば撃退して善戦で名を上げた。

かねて後主に、宣歙で叛くと偽って呉越をおびき出し、乗じてこれを滅ぼす奇策を献じたが採用されなかった。宋の南侵に際しては潤州の援軍として派遣され、内応を図る節度使劉澄の陰謀を見破って独り金陵への突破を試みたが囲みが堅くて果たせず、宣州に退いてなお抗戦を続けた。金陵陥落後も降らず、閩を頼ろうとする途上、城を閉ざして拒んだ歙州刺史龔慎儀を殺害して進んだ。

弟の勧めで宋に降り冀州団練使に任じられたが、龔慎儀の甥の穎に恨みを訴えられて捕らえられ、貌が謀反人侯霸榮に似ているとして宋太祖に西市で斬られた。刑に臨み、かつて授かった鉄券の誓いを陛下は忘れたのかと大声で叫んだという。若き日の熱病の際に見た夢の女性と、同じ刑場で処刑された女性の姿が重なる不思議な逸話も伝わる。史論では、終わりを全うすることは少なかったが、才略は縦横で初めは取るべきところがあった人物として評されている。

現代語訳全文

出自と廬山三害

  • 盧絳は字を晋卿といい、宜春の人である。自ら歙州刺史盧肇の後裔と言った。初名は衮といったが、晋の魏絳を慕って改名した。読書してやや大意を通じ、当世の利病を論じるのを好んだが、規則にとらわれず、いつも博奕・角觝(すもう)を事とした。進士に挙がって及第せず、そのまま棄てて吉州の回運務の計吏となったが、庫の金を盗んだ事が発覚し、法に伏すべきところ、儒服に改めて江湖の間に亡命した。
  • 新淦に至ると、土豪の陳氏に客となり、その子弟とともに学んだ。絳は縦横家・兵家の言を好み、日夜射猟にふけった。陳氏はその士流でないことを察し「朝廷は今、賢豪を求めている。あなたはここに長く留まっていられようか」と言い、そこで装いを厚く整えて出立させた。
  • 絳が宜春に帰る途中、賭博で袋中の装いをすべて使い果たしてしまい、家に至ると母や兄弟はみなこれを卑しみそしった。絳はそこで廬山の白鹿洞書院に入ったが、なおも無頼で、屠殺・行商を事とし、多く同宿の書生から金を脅し取り、また搉貨(専売品の売買)を扱って山中で商いをし、人の短所長所を握って賄賂を求めたので、人々はみなこれに患い苦しんだ。諸葛濤・蒯鼇とともに「廬山三害」と号された。

潤州の戦いと後主への謀策

  • 朱弼が国子助教となりその罪を捕らえて治めようとすると、絳は再び逃げ去った。金陵・丹陽の間を往来し、大寒に遭うと、平地で跳び上がって簷(軒)の桷(たるき)を折って薪とし自ら暖を取った。倉を守る役人が帰ると、さらに跳んで倉の軒から気楼(通気口)を通って倉中に入り、米を盗むこと一夕に数十回に及んだ。
  • しばらくして上書して政事を論じたが返答がなかった。枢密使の陳喬を訪ねて口頭で上書の内容を陳べると、言葉の弁は縦横であった。喬は驚いてこれを異とし、本院の承旨として用いた。沿江巡検を授けられ、亡命者を募って水戦を習わせ、馬雄・王川らにそれぞれ将として率いさせ、海門で呉越の兵を要撃してしばしば舟艦を得たので、善戦をもって聞こえた。
  • 開宝中、密かに後主に説いて「呉越は仇讎、腹心の疾です。他日必ず北兵の羽翼となって我らを攻めるでしょう。臣はしばしば彼らと戦い、その与しやすさを知っています。事より先に不意に出てこれを滅ぼすに越したことはありません」と言った。後主は「そうすれば大朝(宋)がまさに討伐してくるだろう、どうしたものか」と言った。絳は「臣に、詐って宣歙で叛くと言わせてください。陛下は深く賊を討つと言い、かつ呉越に賂って兵を乞うてください。呉越の兵勢は必ず出てくるでしょうから、その来るのを待って拒み撃ち、臣がその後を襲えば、国を覆すことができます。呉越を滅ぼせば国威は大いに振るい、北兵もあえて動かないでしょう」と言ったが、後主は聞き入れなかった。
  • 宋軍が南侵するに及び、絳は凌波都虞候・沿江都部署となり、秦淮の水柵を守り、戦えばしばしば勝った。諸将はその能力を忌み、共に後主に説いて絳を潤州の援に出させ、昭武軍節度留後を授けて八千人を率いさせ、潤州城下に陣を張らせた。北軍はあえて逼らなかった。
  • 城に入って拒守すると、節度使の劉澄は事を計るのに乗じて絳を斬り城をもって降ろうと謀ったが、絳はこれに気づいた。澄はそこで絳に「都城は危うきこと甚だしい。万一守れなければ、ここを守って何になろうか」と言った。絳は「あなたが守将であるからには城を棄ててはならない。難に赴くべきは絳である」と言った。その夕、澄は副将を遣わして降欵(降伏の意を示す文書)を送った。

抵抗と最期

  • 絳は部下を率いて馳せ出て囲みを冒して金陵に入ろうとしたが、囲みは堅くて入ることができず、そこで宣州に走ってこれを保った。金陵の城が陥ち諸郡がみな下ったが、絳はひとり降らず、南に閩中を拠点としようと謀った。歙州刺史の龔慎儀のもとを通りかかると、慎儀は城を閉じてこれを拒んだので、これを殺して行った。
  • 宋太祖は絳の弟の襲に絳を招かせた。絳は初め襲を殺して屈しないことを明らかにしようとしたが、まもなくついに降り、汴京に至って冀州団練使を授けられた。慎儀の兄の子である贊善大夫の穎に朝廷で出会うと、穎は絳を詬(ののし)って「これは私の叔父を殺した者だ」と言い、捕らえて殿陛に至り冤を訴えた。詔して吏に委ねさせると、枢密使の曹彬はその才略が用いるに足るとして、その死を宥すよう願った。しかし太祖は「これは貌が侯霸榮に似ている。どうして留められようか」と言い、西市で斬った(『江南野史』には、絳が既に引き出されると、呼延贊がまさに刑の執行を監視しようとしたとき、絳は「万乗の帝王が一人の偽って署任した節度使を斬るのに、氈褥(敷物)がなくてよいのか」と言い、贊は馳せて上奏し、そのままこれを賜ったとある)。
  • 侯霸榮とは、河東の将で、常に降っては叛き帰り、その主劉継恩を殺した者であるため、太祖はこれを憎んでいた。絳は刑に臨んで大声で「陛下はひとり鉄券の誓書をもって臣を招いたことをお忘れですか」と叫んだ。
  • はじめ絳が不遇であった時、熱病にかかり日を重ねた際、白衣の女子が真珠の衣を被て蔗漿(さとうきびの汁)を持って飲むよう勧める夢を見た(一説には甘蔗を持たせ、絳にことごとく食べさせたという)。そして「菩薩蛮」の詞を歌って絳を慰めた。絳は目覚めてその「玉京人去」の詞を記憶し、いつも「他日、富貴になったら固子坡(『江南野史』には孟家陂に作る)で会おう」と言った。
  • この時に至って、耿玉真という婦人が淫乱の罪で共に斬られたが、その姿貌はまさに夢に見た通りであり、その受刑の地を問うとまさに固子坡であったという(絳の孫の器は文学があり宋の進士に登第した。案ずるに鄭瑗の『井観瑣言』には「『南唐史』では盧絳は江南に仕えて昭武節度使に至り、金陵が陥ちるに及んで驍勇敢死の士千余を募り、宣歙より長駆して福建に入り、海に沿って兵を集め興復を図ったが果たせずして敗れたという。今、句容県東陽鎮市の東に盧大王廟があり、志には絳の祠であるという。しかし『馬令南唐書』では、金陵が既に平定されると、絳はひとり順わず歙州刺史の龔慎儀を殺した云々とし、のちに固子坡で斬られたとする。旧史に拠れば絳はその仕えた事のために死んだことになるが、馬書に拠れば絳は仇人に訴えられて死んだことになる。瑗が思うに、絳が兵を集めたのは唐の興復のためであり、歙が既に宋に降ったので、その守臣を殺したのは勢いとして当然のことである。宋の太祖が韓通を追贈し衛融・張洎を録用した事から見れば、龔穎はただ叔父の冤を訴えたのみで、太祖は必ずしもすぐに絳を殺そうとはしなかったであろうし、句容の人は必ずしも絳のために祠を立てないだろう。旧史がまさに実を得ているのであろう。姑くこれを記して考証に備える」と言う)。

史論

  • 論じて言う。郭廷謂はしばしば勁敵を挫き、力尽きて降った。要するに、敗れた主のもとで栄誉を取る者とは異なる。朱令贇は軍を覆し身は没したが、将略はもとより長ずるところではなかったにせよ、事に死したことはやはり泯(ほろ)ぼすべきではない。陳大雅は申屠(自害するほどの節義)の志を懐きながら節を貶して職を受けたが、その初めの志はどうしてこれに及ぼうか。盧絳はよく終わりを全うすることは少なかったが、才略は縦横で倔強不屈であり、初めはまた取るべきところがあった。