十国春秋卷二十九 南唐十五 列傳 何溥

地理の識見

  • 何溥は字を令通といい、袁州宜春の人である。天資頴異で雲気を識り、地理家の言に善かった。元宗はその賢なるを聞いて、たびたび詔してこれを起用し、天経地義の実を上言させたことで国子祭酒に抜擢した(一説には官は僕射という。案ずるに溥の『休寧県基記』には「職は国師に任ず」とあり、また方回に「輓祭酒何公像」の詩がある。今はこれに従う)。
  • 保大中、鄒廷翊が牛頭山に皇陵を相したが、溥は不利であると言い、強く表して諫諍したため、旨に忤い、休寧令に謫された。溥は邑に至ると、すぐに県の基を呉王墓の後ろ、松蘿山を背にし前は真武下壇と名づく地形に改めた。まもなく地を県の東南の隅に卜してそこに居し、舎の前に石を削って太極八卦の諸図を按じ、茂林修竹があり、時々胸襟を披いて嘯傲することを常とした。
  • 後主の時、再び徴されたが応じなかった。国が亡ぶと、溥は大いに哭して血を噴き、転じて芙蓉山に隠れ、剃髪して頭陀となり昭禅師に礼し、別号を慕真、また紫霞山人と号した。溥は禅門に迹を仮りたといえども、まったく釈語を談ぜず、いつも『道徳経』を誦じては必ず「真の聖人である。孔子はどうして私を欺こうか」と嘆じた。これより専ら長生煉化の術を修めた。宋の天禧の初め、火解(火による羽化)をもって、著した『論気正訣』一巻を世に伝えた。