十国春秋卷二十六 南唐十二 馮延已

要約

馮延已、字は正中。広陵の人で、十四歳で父の名代を務め人心を安んじたという逸話を持ち、白衣のまま烈祖に見えて秘書郎を授けられ、元宗が元帥となると掌書記に用いられた。陳覚を通じて宋斉邱に取り入り、同府で位ある者をことごとく計をもって出し自らの上に立つ者をなくした。才芸を恃んで朝士を軽んじ、孫晟から「山東の書生である私すら及ばぬほど諛佞険詐だ」と面罵されるほど人望は薄く、常夢錫らにも小人と評されたが元宗に重用され続けた。弟延魯・魏岑・陳覚・査文徽と結んで「五鬼」と呼ばれ国政を専断し、烈祖の慎重な軍事路線を「田舎翁にすぎない」と嘲り、大言をもって元宗を惑わせた。

湖南平定後、劉言に節を与えて和すべきとする孫晟の提案に反対して威を傷つけると論じ、内帑を惜しんで長沙に兵賦を課したことで民心を失い、結局長沙を劉言に奪われて周にも隙を与えた。周の侵攻で江北を失うとようやく相位を罷免されたが、まもなく復職した。建隆元年、五十八歳で没し忠粛と諡された。「風吹皺一池春水」の句をめぐる元宗との風雅な戯れの逸話でも知られる。弟延魯とは表向き結託しながら内心では仇のように忌み嫌ったが、晩年は自ら勉めて公平になり、大理卿蕭儼の誤判による死罪を弁護して助命するなど、やや円満な人柄に転じたと伝えられる。

現代語訳全文

生い立ちと元帥府への出仕

  • 馮延已、一名延嗣、字は正中、広陵の人である。父の令頵は本郡に事えて軍吏となった。烈祖は署して歙州塩鉄院判官とした。裨将樊思蘊が乱を起こし営に火を放ち令頵の邸に及んだが、叛卒は皆兵を釈いて火を救ったほど、その人心を得ていたことはこのようであった。当時刺史骨言の病が重く、あるいは已に死んだと伝えられ人情は詾詾(騒然)としていた。延已は年十四で父の命により見舞いに入り、出て言葉で命を謝して将吏の外を安んじた。成長すると文雅をもって称せられ、白衣(無官)で烈祖に見え、秘書郎を授けられた。
  • 元宗が呉王として元帥となると、延已を用いて掌書記とした。陳覚と善かったので、覚によって宋斉邱に附き、同府で位の高い者を悉く計をもって出し、そこで已の上に居る者が無くなった。元宗もまた頗るその端士でないことを悟ったが去らせることができなかった。延已はその材芸を負んで朝士を狎侮(軽んじあなどる)した。かつて孫晟に「君は何の解するところがあって丞郎となったのか」と言った。晟は憤然として答えて言った、「私は山東の書生で、鴻筆藻麗(文才)は十のうち君に及ばず、恢諧飲酒(酒宴の座興)は百のうち君に及ばず、謟佞険詐は累劫(幾世に渡って)君に及ばない。しかし上が君を王邸に置かれたのは、君が道をもって規益(助言)することを望まれたのであって、君を声色狗馬の友とするために遣わされたのではない。私は固より解するところが無いが、君の解するところは、まさに国家を敗るに足りるものである」と。延已は恥じて答えることができなかった。
  • 給事中常夢錫はしばしば「延已は小人であり、王の左右に置くべきではない」と言った。烈祖はその言に感じ、まさにこれを斥けようとしたが、崩御に会って果たせなかった。元宗が立つと延已は喜色を形にし、まだ聴政もしないうちにしばしば入って事を白した。元宗はまさに哀慕の情にあり、これを厭って「書記には自ら常職がある、その他はそれぞれ司る所があるのに、何と煩わしいことか」と言った。そこで少し止んだ。

五鬼の一人としての専横

  • 保大初年、諫議大夫・翰林学士に拝され、戸部侍郎・翰林学士承旨に遷り、また中書侍郎に進んだ。再びその弟延魯とともに魏岑・陳覚・査文徽と交結し、時政を侵損し、時の人はこれを「五鬼」と呼んだ。四年、同平章事・集賢殿大学士となったが、罷めて太子少傅となった。まもなく昭武軍節度使に除されたが、母の喪のため去り、起復して冠軍大将軍となり、召されて太弟太保・領昭義軍節度使となり、まもなく左僕射同平章事となった。
  • 延已はしばしば柄任(要職)にあり、元宗がその奸をよく察することができないことを推し量り、ついに自らの才略が天下を経営するに余りあると考え、人主が自ら庶務を覧るのに、大臣が備位(無為に座っているだけ)でどうして理を致すことができようかと考えた。元宗は果たして政をすべて委ね、事はすべて奏を可とするのみであった。延已は初め文芸によって進んだが、実は他に長ずるものが無く、紀綱は頽弛し、吏胥が用事し、軍旅はすべて辺帥に属して可否するところが無かった。ますます大言をもって衆を圧し人主を惑わそうとし、烈祖が兵を戢めたことを譏笑して齷齪(狭量)で遠略が無いとした。常に言った、「安陸の敗戦で兵数千を喪い、食を輟めて咨嗟すること旬日に及んだ、これは田舎翁にすぎない、どうして天下の事を成すことができようか。今、上は数万の師を外に暴し、宴楽・撃鞠をいまだ少しも止めない。これこそ真の英雄主である」と。

湖南の議と延魯との軋轢

  • 九年、湖南が平らぎ、朗州の劉言が叛いて勢いが張った。元宗もまた用兵の難しさを知り、延已と孫晟に言った、「湖湘の役は楚人が肩の荷を下ろすことを求めており、我が出兵は已むを得なかっただけだ。今もし劉言に旄節を授けてその民を和すれば、我もまた衡湘の民を休養させることができるだろう、国はほとんどこれで良いのではないか」と。晟はすぐにこれを奉行しようとしたが、延已はまさに楚に克ったことを功としていたので、言った、「本朝が偏師を出して一国を平定すれば、宇県(天下)は震動する。今、一旦三分してその二を棄てるのは、威を傷り重を損なうことで、天下に示すべきことではない。かつ諸将は行って功を奏している」と。持し下さず、また軍興に縁って内帑から資を取ることを欲せず、そこで長沙に使いを遣わして兵賦を調発した。これにより重ねて民心を失った。言はついに長沙を取り、故楚の地をことごとく拠った。周人もまた隙をうかがって動いた。朝廷の論は籍籍として、延已は力めて去ることを求めたが、元宗はこれを初めのように待遇した。

失脚と晩年

  • 周の軍が大挙して入り、江北の地をことごとく失うに及んで、初めて延已の相位を罷めたが、なお太子少傅とした。数ヶ月してまた相となり、疾に会って太子太傅に改まった。建隆元年五月乙丑(960年CE)に卒した。享年五十八。忠粛と諡された。
  • 延已は詩に工みで、貴くまた老いてもなお廃さなかった。「宮瓦数行の暁日、竜旗百尺の春風」のような句がある。識者はこれを元和の詞人の気格があると評した。とりわけ楽府詞を作ることを喜んだ。元宗は常に曲宴で内殿にて、悠然として「吹皺一池春水、卿に何の関係があろうか」と言うと、延已は答えて「どうして陛下の『小楼吹徹玉笙寒』ほど特に高妙でしょうか」と言った。当時、敗亡して支えられず、稽首して敵に称臣し、それによって歳月を茍安していたのに、君臣が相い戯れることはこのようであった。
  • 延已は宰相となって以来、動くとしばしば私に徇い、故人・親戚をほとんど謝絶した。弟の延魯とはともに斉邱に党しながらも、内心では忌むこと実に仇讎のようであった。延魯を生んだのは延已の継母であったが、これに対してもまた甚だ疎隔していた。晩年、やや自ら勉めて平恕(公平寛容)になった。蕭儼が常に廷において延已の罪を斥責したが、大理卿となって軍吏李甲の妻の獄を断じた際、失入(誤判)に坐して死刑になるところ、議者は皆当然死に処すべきだとした。延已だけが揚言して言った、「儼が正卿として誤って一婦人を殺したというなら、当然死に処すべきだ。しかし君らが今、正卿を殺すことを議しているが、他日誰がその責を任じるのか」と。そこで建議して、「儼はもとより直声があり、今坐している罪はすでに赦宥を経ている、宜しく弘く貸すべきである」と言い、儼はついに免れることができた。人々は皆これをよしとし、裴冕が怨みを損なった故事もこれに加えることはできないと言った。