十国春秋卷二十二 列傳 何敬洙

要約

何敬洙、広陵の人である。体躯は短小醜陋であったが身軽で力があった。幼くして乱に遭い、呉の楚州刺史李簡に得られて雑事に従事した。残忍な簡の下で、酔って戯れに主人秘蔵の硯を割ってしまい死罪を覚悟したが、敬洙を奇とする簡の妻に匿われて事なきを得た。後日、簡を悩ませる烏を朱塗りの弾で一発射殺してその怒りを解き、人相見の董紹顔にも「あなたを超える奇相」と評されて簡にますます可愛がられた。

成長して軍校となり、簡の没後は烈祖に仕えて裨将から天威軍都虞侯に進んだ。建州の役では行営招討歩軍都指揮使として出陣し、功は諸将中最大であったにもかかわらず、これを王建封に譲って少しも吝む色を見せなかった。楚州団練使としては、かつて自らここで身を起こしたことを思って奮い立ち、微服で市中を巡って民の苦しみを察し、訴えは自ら曲直を判断して人々を心服させる善政を敷いた。

保大八年、周が淮南に侵攻した際、籠城の詔に逆らって「兵民とともにここで死ぬ」と城を出て陣を布き、敵の攻勢を退けた決断が重んじられ鎮国将軍中書令を加えられた。後主の代には足の病を理由に致仕を願い出て右衛上将軍・苪国公に封じられ、全俸と門に戟を列ねる栄誉を受けた。乾徳二年二月、七十七歳で没し、後主は朝を三日廃して鄂州大都督左衛上将軍を贈り、威烈と諡した。

現代語訳全文

経歴

  • 何敬洙、広陵の人である。体躯貌かたちは短小醜陋であったが、身軽で力があった。幼くして乱に遭い、呉の楚州刺史李簡がこれを得て、身辺の雑事に従事させた。簡の性は残忍で、下僕・下男が少しの過失を犯すとたいてい死に処した。
  • 敬洙はその仲間と階下で腕相撲をしていたところ、簡が大切にしている硯を持って通りかかった者があり、ふざけて「誰がこれを割る勇気があろうか」と言った。敬洙はその時酒に酔っていて、色を厲しくして「生死は天命次第だ」と言い、一投げでこれを砕いた。
  • 翌朝、簡が政務を執った後、硯が壊れたことを聞き、担当者に問い詰めると、事の次第がありのまま報告されたので、直ちに敬洙を捕らえるよう命じ、皆必ず死罪になると思った。ところが簡の妻がもとより敬洙を奇と見ていたので、これを堂の奥に匿い、十日ほど経つと、簡はすでに逃げ去ったものと思い、これも不問に付した。
  • たまたま烏が簡を追って騒ぎ立て、これを避けようとするとどこまでも付いてきたので、簡は大いに怒って「何敬洙がここにいないのが恨めしい。敬洙は射に長けており、命中して外すことがなかったので、彼を思い出したのだ」と言った。言い終わらないうちに、敬洙は朱塗りの弾と鉄の玉を携えて前に進み出て拝礼し、立ち上がって一発でこれを射殺した。簡は大いに喜び、二度と硯を壊した件を咎めなかった。
  • 董紹顔という人相見がおり、簡が息子たちを見させたところ、「みな善い相ですが、公(あなた)には及びません」と言い、独り敬洙を指して「これは奇相です。あなたを超えるでしょう」と言ったので、簡はこれによってますます敬洙を可愛がった。
  • 成長すると軍校に用いられ、簡が卒すると烈祖に仕えて裨将となり、天威軍都虞侯に進んだ。建州の役では行営招討歩軍都指揮使となり、たまたま査文徽が進撃した際、敬洙は「閩の地は僻陋で大軍を労するに値しない」と固執して主張したが、文徽が説得したためやむを得ず出陣した。建州平定に及んで、敬洙の功は諸将の中で最も大きかったが、その功を王建封に推し譲り、少しも吝みの色を見せなかった。楚州団練使を拝した。
  • 敬洙は初め李簡に仕えたのがこの州であったことから、とりわけ自らを奮い立たせ、常に微服して市中を巡回し、民の苦しみを察し、条例があれば率先してこれを計画した。民は苦労を知らず、事に座して聴き、賓客と座して語り宴し、民に訴えごとがあれば直ちに引見して自ら曲直を判断し、みな心服して退出した。
  • 保大八年、楚の馬希蕚が来附し、かつ援軍を乞うたので、元宗は敬洙にこれを援けさせ、武昌軍節度使に遷らせた。周が淮南を侵すと、武安節度使の王逵に所部の州軍を率いて江南の境に入るよう命じ、逵は周の詔を奉じて出陣し、かつ部将の潘叔嗣を先鋒として鄂州の長山寨を取らせ、三千人を殺した。元宗は敬洙に清野(周囲を焼き払って敵の食糧補給を絶つ策)をもって城に籠るよう命じたが、敬洙はこの詔に逆らい、城を出て地を整地して戦場とし、「敵が来れば、私は兵民とともにここで死ぬ。大丈夫たる者、どうして怯えて門を閉ざして自ら守ることができようか」と言った。
  • たまたま叔嗣は長山から矛先を転じて朗州を襲ったため、逵は狼狽して去った。人々はその決断を重んじ、鎮国将軍中書令を加えた。後主が跡を嗣ぐと、足の病をもって解官を乞い、右衛上将軍を授けられ苪国公に封じられ致仕した。全俸を給せられ、門に戟を列するほどの栄誉を受けた。乾徳二年二月に卒し、年七十七。後主は朝を三日廃し、枢密使中書侍郎の朱鞏に節を持たせて冊命し、鄂州大都督左衛上将軍を贈り、威烈と諡した。