十国春秋卷二十 列傳 徐知諤

経歴

  • 徐知諤は義祖の第六子である。呉の時代に太子中舎から身を起こし、累進して刺史・節度使となり、兄の知詢に代わって金陵尹となった。
  • 烈祖が禅を受けると饒王に封じられ、まもなくさらに梁王に進封され、潤州に鎮して中書令を兼ねた。
  • 珍奇な宝物や怪しい品を好み、その蓄えは数え切れないほどであった。ある蜀の商人が鳳の首を持って来て、みずから言うには「境外の南蛮において得たもので、雄鶏のような形をし、幅五寸、冠の上は平らで枕に用いることができ、朱色の冠、翠の尾、金の嘴、星のような眼、文彩は輝いて生きているかのようである」といい、人々はみな異とした。
  • ある日、蒜山に遊び、地を除いて広場とし、虎の皮を連ねて大きな幄を作り「虎帳」と号し、賓客・僚属とその中で会飲したところ、突然暴風が起こり帳が裂けてことごとく砕け、蝶が飛ぶかのようであった。知諤は恐れて帰り、病にかかって数日で卒した。
  • 平生、人によく語って言うには「人生七十を大限とする。私は王家に生まれ育ち、歓楽を窮め尽くした。一日で世の一世を敵うほどであるから、二日ならば三十五年に当たる。私はまもなく死ぬのだろう」と。この時に至ってその言葉の通りとなった。
  • 烈祖は悲しみ悼み、朝を七日廃した。それが終わるとさらに詔して視朝しないこと七日に及んだ。兖冕(天子に准じる礼服)と尚方の秘器をもって斂葬し、諡して懐とした。十人の子はみな貴顕であった。国中で著された文賦・歌詩十巻は『閣中集』と号された。

徐知證・徐知諤――史論

史論

  • 義祖は六子を生んだが、昇元の開国の時には、ただ知證・知諤のみが在世し、爵を得て封を受け、李氏の諸王と肩を並べたのは幸いというべきである。のちの永楽年間には霊佑の功をもって特別な称号を賜り、その美号は四百余年を経てなお霊験が衰えなかった。これはいわゆる「精を取ること多くして物を用いること弘き者」ということであろうか、まことに異なことである。