十国春秋十國春秋卷十九 南唐五 南唐宗室列伝(烈祖・元宗・後主の子女)

楚定王景遷(烈祖の第二子)

  • 景遷は烈祖の第二子。幼くして聡敏で、書物は一読すれば忘れなかった。長じて姿かたちが美しく、風度は和やかだった。
  • 呉の上饒公主を娶って駙馬都尉となる。衣服調度は質素で華美を好まなかった。
  • 衙内馬歩軍都指揮使・海州團練使・左右軍都軍使を歴任し、左僕射・參政事として広陵に留まり輔政にあたった。当時まだ元服前後の年齢である。まもなく同平章事を加えられ、知左右軍使となった。
  • 病を得て金陵に戻り、諸道副都統となる。代わって景遂が輔政にあたった。景遷は一年余り病んで没した。享年十九。諡は定。飲馬池の南に葬られた。
  • はじめ術士たちはみな「景遷の貴きは言うべからず、しかも最も長寿である」と言い、そのため烈祖は諸子のなかでとりわけ彼を愛した。この死でその予言の妄であったことを悟った。
  • 昇元元年(937年)に高平郡王を追封。保大の初め(943年)に元宗が諸弟の封を改めた際、楚王を追封し、江文蔚に碑を作らせて墓に立てさせた。
  • 早世して子がなかったため、のちに後主が亡国の詩に詠んだ「兄弟四人三百口」の句は、元宗・景遂・景達・景逷を指し、景遷は数に入っていない。

晉文成王景遂(烈祖の第三子)

  • 景遂は烈祖の第三子。呉に仕えて門下侍郎。烈祖の受禅後、吉王から壽王に進封され、東都留守・江都尹となった。
  • 性は純厚恬淡で、士君子の風があった。譲皇(呉の睿帝)の喪に際して命を受けて護喪にあたり、柩を望んで慟哭したので、見る者は感嘆した。
  • 烈祖の崩御後、元宗は位を景遂に譲ろうとしたが、大臣が強く反対してとりやめとなった。燕王に改封、さらに齊王に改め、諸道兵馬元帥を加えられた。
  • 翌年、景遂に庶政を総べさせる詔がすでに下されたが、みな不可としたため詔は回収された。長らくして皇太弟に立てられ、太子の官属はすべて太弟の官属と改称された。
  • 景遂は固辞したが許されず、老子の「功成り名遂げて身退く」の意を取って字を「退身」と改め、その地位に安んじない志を示した。
  • 平生は客を好み文章に巧みで、宴集の絶えぬ日はなかった。賛善大夫の張易は峻直で直言を好み、景遂が繊麗な詩を作ったときは面と向かって諫めたが、景遂は敬んで受け入れた。また張易が座中で怒って玉杯を砕いたときも、景遂はすぐに詫び、逆らう色を見せなかった。
  • 張易が契丹への使者に立ったとき、景遂は自ら上疏し「張易は国士であり、朝夕に諫言を納れさせるべきで、測り知れぬ淵に浮かべるべきではない」と述べた。元宗は「易は奇士である。海神とて彼を畏れよう」と答え、結局遣わした。
  • 東宮にあること十三年、しばしば藩国に帰ることを乞うた。交泰年間(958年)にようやく天策上将軍・江南西道兵馬元帥・洪州大都督・太尉・尚書令に改められ、晉王に封じられた。枢密副使の李徴古が鎮南軍節度副使として補佐についたが、李徴古は驕慢に慣れ、鎮に至って専恣がとりわけ甚だしかった。景遂は堪えかねて斬ったうえ自ら有司に拘禁されようとしたが、左右に諫め止められた。
  • 景遂が藩鎮に出たころ、弘冀が太子となっており、あるとき元宗に譴責されたことから、元宗にはふたたび景遂を立てる意向があった。景遂も鎮にあって鬱々と苛立つことが多く、意に逆らったという理由で都押衙の袁從範の子を殺した。
  • 弘冀はそれを探知し、親吏に毒を持たせて袁從範に届け、景遂を毒殺させた。景遂は蹴鞠のあと渇いて飲み物を求め、袁從範が毒を入れた飲み物を進めた。景遂は急死した。享年三十九。納棺前にすでに遺体は崩れていたという。
  • 元宗はもともと兄弟の情が篤く、訃を聞いて悲嘆した。左右はこれを慰めようと「太弟ははじめ病を得たとき、突然『上帝が私に許旌陽の代わりを命じた』と人に語った」と偽って言い、元宗はようやく少し気が晴れた。毒殺の件はついに知らずじまいだった。七日間朝を廃し、太弟を贈り、諡を文成とした。

齊昭孝王景達(烈祖の第四子)

  • 景達、字は子通。烈祖の第四子。呉の順義四年(924年)生まれ。この年は大旱で、輔政の任にあった烈祖は焦慮のきわみにあった。七月十六日、雩祀を行って雨を得た当日に景達が生まれたので、烈祖は喜んで小名を「雨師」とした。
  • 少し長じると気性が爽やかで他の子と異なり、烈祖は深く器量を認めた。受禅後、壽陽郡公に封じられ、のち宣城王。烈祖は彼を嗣子にしたかったが、順序を越えることを憚って果たせなかった。
  • 烈祖の崩御時、景遷はすでに死んでおり、元宗は病と称して固く辞退して景遂に譲ろうとし、順に景達へ及ぼして先帝の遺意を継がせようとしたが、群下の議に迫られて行えなかった。景達は鄂王に進封され侍中を加えられ、のち燕王。景遂が太弟に立てられると、景達は諸道兵馬元帥・中書令となり、齊王に改封された。
  • 孝友の情は純粋そのもので、あるとき後苑で遊び池に舟を浮かべた際、元宗の舟が転覆した。別の舟にいた景達はもともと泳ぎが得意でなかったが、ためらわず水に飛び込んで元宗を背負って出た。人はその精誠の致すところと考えた。
  • 性は剛毅で悪を憎み、朝廷は彼を憚った。元宗が宗室と近臣を招いて内輪の宴を開くたび、馮延巳・馮延魯・魏岑・陳覺らは寵をたのんで傍若無人に笑い騒いだので、景達はしばしば叱責し、さらに元宗に極諫した。
  • 後日、東宮での宴で、馮延巳は二人の弟王の任命が自分の力によるものでないのを恥じ、うわべの言葉で恩を売ろうと、酔ったふりをして景達の背を撫で「私を忘れなさるな」と言った。景達は憤りに堪えず、席を蹴って参内し馮延巳を斬るよう請うた。元宗が長らくなだめてようやく収まった。
  • 張易が景達に「小人どもが徒党を組んで扇動している。禍いは小さくない。大王の力ではまだ除けぬのだから、耐え忍ぶのが得策だ」と言うと、景達は悟り、以後は禍を避けて内輪の宴には病と称して出なかった。
  • 景達は剛毅ではあったが軍務の経験がなかった。保大末年、淮南の戦役で元帥として督軍したが、陳覺が監軍使となり軍政はすべて陳覺が決し、景達は書面の末尾に署名して承認するだけだった。朱元の叛と壽州の陥落はいずれも陳覺の招いたことだが、景達は問い質すこともできなかった。
  • 出師の際は五万だったが、捕虜・戦死・逃亡で四万を失った。景達と陳覺は残兵を率いて金陵に帰り、印綬を返上した。元宗は彼が無功を恥じているのを慮って天策上将軍・浙西節度使を拝したが、景達は要鎮に当たるのを憚って力辞し、撫州大都督・臨川牧に改められた。
  • 淮南での敗戦以来、日ごと酒に浸り、鎮にあること十余年、政務を僚属に委ねて自らは怠った。後主の即位後、太師・尚書令を加えられ、たいへん尊礼された。開寶四年(971年)に鎮で薨去、享年四十八。烈祖の諸子中で最も長命だった。太弟を贈られ、諡は昭孝。遺命により江州の廬山に葬られた。
  • かつて景達は神仙・道家の説を好んだが、記室の徐鍇が「述仙賦」を献じて諷したところ、たちまち好みを絶った。善に従うことの勇はこのようであった。
  • 烈祖の五子のうち、元敬皇后(宋氏)が元宗・楚定王(景遷)・晉文成王(景遂)を生み、江昭順王(景逷)は种夫人の出である。

江昭順王景逿(烈祖の子)

  • 景逿、字は宣遠。烈祖が受禅した当初、十二月二日を仁壽節と定めたが、景逿はその日に生まれたので小名を仁壽といった。烈祖はたいそう愛した。
  • 母の种夫人が譴責を受けたため、元敬皇后が景逿を我が子のように養育した。
  • 元宗の即位後、保寧王に封じられ、信王に改封、百勝軍節度使として出鎮した。簡素倹約で虔しみ深く、民はその政に安んじた。
  • 当時、諸王・大臣はみな仏教を好んだが、景逿ひとり仏書を非難し、もっぱら六経の名教を旨とした。贛県の令が死んだとき、尉の邵繼良が令の職務を代行しながら、喪の当日に音楽を奏して宴飲したので、景逿はただちに奏上して罷免させた。
  • 小さな過ちがあるたび掌書記の孫峴が苦言をもって正したので、景逿はかえって礼を厚くした。孫峴が没すると、言及するたび涙を流し、その遺児を厚く恤んだ。
  • 後主の即位後、江王に進封され、侍中を拝した。鎮にあること十一年、開寶元年(968年)に薨去、享年三十一。中書令を贈られ、諡は昭順。
  • 子の李季操は宗正卿となり、後主に従って宋に帰した。右神武将軍となり、累進して左衛大将軍・領康州刺史、單州都監として出て、淮陽・漣水の二軍と蔡州・舒州を歴任し、大中祥符四年(1011年)に卒した。

烈祖の従子たち

  • 景邁は烈祖の従子。昇元元年(937年)十一月丁巳、推恩により晉陵郡公に封じられた。
  • 景遜も烈祖の従子。昇元元年、景邁と同日に上饒郡公に封じられた。
  • 景邈は父の名が伝わらないが、烈祖の兄の子である。昇元元年、桂陽郡公に封じられた。
  • 景逸は烈祖の従子。昇元元年、同姓への加恩により平陽郡公に封じられた。

文獻太子弘冀(元宗の長子)

  • 弘冀は元宗の長子、母は光穆皇后。唐末に民間で「一真人有り冀州に在り、口を開き弓を張って宗の辺に向かう」という讖が伝わっており、元宗は自分の子をそれに当てようとして「弘冀」と名づけた。
  • はじめ東平郡公に封じられ、南昌王に移封。元宗の即位後、弟の景遂を兵馬元帥、景達を副元帥とし、烈祖の梓宮の前で兄弟相伝を誓ったうえで、弘冀を東都留守として出した。景遂が太弟に立てられると、潤州に鎮を移し燕王に封じられた。
  • 弘冀は沈厚で口数が少なかった。後周の軍が広陵を陥れ、呉越もまた常州を攻めたとき、元宗は弘冀がまだ若く軍旅に慣れていないことを案じ、使者を遣わして都へ召し戻そうとした。部将の趙鍔は「王は年若くとも元帥の重責は衆心の頼るところ。一歩でも退けば部下の心は揺らぐ」と説いた。弘冀は「城砦の相次ぐこの秋に安逸に就くという義はない、死をもって国に報いたい」と奏し、元宗は許した。
  • 元宗は龍武都虞侯の柴克宏、右衞将軍の陸孟俊を常州の救援に遣わし、弘冀は潤州を守った。枢密副使の李徴古は神衞統軍の朱匡業を柴克宏の代わりに立て、柴克宏を呼び戻すよう申し出た。
  • 弘冀は柴克宏に才略があると見抜き、「君はただ前へ出て戦え、私が守りに当たる」と言い、「克宏は必ず賊を破れる。常州の危機は目前で、敵を前にして将を替えるのは兵家の忌むところ。臣が身をもってその功を保証する」と上表した。柴克宏も感激奮起し、常州に馳せて呉越軍を大破、首級一万、その将佐数千人を捕らえて潤州に送った。
  • 弘冀は時局が危急であることから、捕虜をことごとく轅門の外に引き出して斬った。人はその決断力を壮とした。しかし元宗は独断で殺したことを久しく不快とした。
  • 太弟の景遂が藩国への帰還を請い、景達が元帥となってまた敗走したのに対し、弘冀ひとり功があったので、太子に立てられ政事の決裁に参与した。元宗は仁厚で臣下の多くは緩みがちだったが、弘冀が剛毅な裁断で補ったので、綱紀はかなり振るった。
  • 元宗は弘冀のやり方が法を越えていると考え、ある日ひどく怒って打毬の杖で打ち据え、「私は景遂を呼び戻すぞ」と言った。景遂が毒殺されたのはこのためである(景遂伝に詳しい)。
  • 元宗は後周に盟を請うたのち、在位の久しさゆえに屈従を恥じ、しばしば使者を後周に遣わして弘冀に位を伝え、自らは大国の附庸となりたいと申し出た。後周の世宗は書を賜って力ずくで止めた。その文は概略、貴国の来書は譲位の意と隠遁への志、数年来の交兵への悔いと自責の言に満ちているが、災いに際して咎を省み身を責めるのは古人にも劣らぬこと、ただし国主は血気盛んで年齢も充実し、一方の英主として百姓の歓心を得ているのだから、君臨の位を辞して世務を捨てるべきではない、悠々自適を慕うより民を安んじる誠を懐くほうがよい、天災の流行はいつの世にもあり聖哲も逃れられぬが、盛徳が日々新たであれば福もいよいよ遠くまで及ぶ、という趣旨であった。元宗はそこで思いとどまった。
  • 後周は使者を遣わすたび、弘冀にも別に国信を賜るのを例とした。
  • 顯德六年(959年)七月、弘冀は病に臥し、しばしば景遂の亡霊を見た。九月丙午に薨去。有司は難を靖めた功により「宣武」と諡した。
  • 句容尉の張洎は弘冀に推薦された士であったが、上書して「世子の徳は膳を視、安否を問うことにある。いま武功を顕彰して後世に示すのは、微を防ぎ漸を杜ぐ道ではない」と論じた。元宗はこれをよしとして議に下し、諡を「文獻」と改めた。張洎はこれによって名を知られた。

慶王弘茂(元宗の第二子)

  • 弘茂、字は子松。元宗の第二子。幼くして穎異、歌詩をよくし、格調は清らかで古雅だった。
  • 十四歳で侍衞諸軍都虞侯となり樂安公に封じられた。騎射・撃刺もみな精習し、兵職を領したが、軍事を好まず、賓客や朝士とともに遊び、もっぱら詩を賦すことを楽しみとした。
  • 文獻太子(弘冀)は剛果で人が憚ったため、当時の人望は弘茂に集まっていた。保大九年七月(951年)に薨去。慶王を追封され、金陵城南五里に葬られた。韓熙載に碑文を作らせて顕彰した。当時の人はそこを「慶王の墓」と称した。
  • 弘茂が幼いころ、元宗が木平和尚に人相を見させたところ、「他は問うまでもないが、分からぬのは寿命だ」と言い、手ずから「九十一」と書いて献じた。薨じたのは十九歳のときであった。

南楚國公從善(元宗の第七子)

  • 從善、字は子師。元宗の第七子で、後主の同母弟。器量は落ち着いて遠大、とりわけ武略を好んだ。はじめ紀國公、進んで鄧王に封じられた。
  • 後周への使者に立ったとき、ちょうど宋の太祖が受禅した。太祖は礼を厚くし、翰林学士の王著に送らせて帰国させた。
  • はじめ從善は鍾謨と結んでおり、鍾謨は從善を嗣子にするよう請うた。元宗は従わなかったが、内心では從善をかなり愛していた。南都への遷都の際は扈従の諸軍を主管させた。
  • 元宗が没し、まだ梓宮に納めぬうちに、從善は徐遊のもとへ行って遺詔を求めた。徐遊は厳しい顔で拒み、金陵に至って一部始終を報告した。しかし後主はもともと兄弟の情が篤く、まったく気にせず、いっそう睦まじくした。韓王に改封され、累進して太尉・中書令。制度を貶した際(宋への恭順のため官制を下げた際)に南楚國公に降された。
  • 開寶四年(971年)、方物を奉じて宋に朝した。宋の太祖は從善を泰寧軍節度・兖海沂等州観察使に任じ、京師に留めて汴陽坊に邸宅を賜った。
  • そのうえで從善に書を送らせて後主に入朝を促させた。從善は「兄は非才ながら宗廟を守っております。陛下が寛大な恩をもって帰朝を許されるのは千載一遇の機、詔を奉ぜぬはずがありません」と述べ、宋帝の意を伝える書を送ったが、後主は従わなかった。後主はかえって自筆の上疏で從善の帰国を求めた。宋太祖はその疏を從善に示し、恩を加えて慰撫し、幕府の将吏にはみな常参官を授けて栄えとした。
  • 後主はいよいよ悲しみ、高きに登って北を望んでは涙で襟を濡らし、年中行事の遊宴もほとんど取りやめた。「却登高文」を作ってその心情を示した。その大略は、玉の酒器に澄んだ酒、金の盆に彩りの餻、茱萸の香は烈しく菊の蕊は芳しい、と重陽の情景を挙げ、左右の者が「よき時節、野に出て高きに登るべし」と勧めるのに対し、自分は若いころ楽しみに耽り歓を尽くして労を忘れ、金石や花月に心を注ぎ、遊侶や選曹を軽んじ、珠を量って伎を招き、綵を綴って舟を飾り、財を費やしてきたが、長夜の耽溺が大徳を損なうことを知らず、いまは家の憂いに焼かれ離別の思いに沈むばかりだ、と述べる。丘に登って爪先立ち、関を望んで目を凝らし、原には鶺鴒(兄弟の象徴)が連れ立って飛ぶのに、わが弟は帰って来ない、空は蒼く風は凄まじく、心は躊躇い涙は流れる、一つの歓びもなく万の思いが悲しみに纏わる——だから「高きに登れ」との勧めは自分にはふさわしくない、と結ぶ。
  • 從善の妃はしばしば後主のもとに参って泣き叫んだが、後主はその来訪を聞くと席を立って避けた。妃は憂憤のうちに没し、国人は哀れんだ。
  • 国が亡ぶと、宋は右神武大将軍に改授。雍熙の初め(984年)に右千牛衞上将軍に再遷、四年(987年)に通許監軍として出て薨じた。享年四十八。
  • 子の仲翊は大中祥符(1008-1016年)に同進士出身を賜り、二年(1009年)にふたたび召されて試を受け、楚州推官に任じられ、累進して殿中丞となったが、事に坐して免ぜられた。次子の仲猷は景德年間(1004-1007年)に特に三班借職に録された。

江國公從鎰(元宗の第八子)

  • 從鎰は元宗の第八子。聡敏で文章をよくした。はじめ舒國公、のち蔣國公に改封。
  • 宋の太祖が李重進を征したとき、命を受けて行在に参上した。後主の即位後、鄧王に封じられた。
  • のち南都留守となり、開寶の初め(968年〜)に宣州へ出鎮した。後主は近臣を率いて綺霞閣で詩を賦して送別し、自ら序文を書いた。
  • 制度を貶した際に江國公に降された。宋が不朝を理由に討伐に及ぶと、後主は從鎰を遣わして帛二十万疋・白金二十万斤を貢がせた。だが宋兵はすでに南へ渡っており、從鎰は汴京の懐信驛に留め置かれた。
  • 勝報が宋に届き、百官が祝賀に赴くと、闔門(儀典官)は從鎰にも班に随って入るよう促し、邸吏も貢献すべきだと言った。しかし副使の潘慎修は「国が討たれ滅亡に瀕しているのに、使者が祝賀の列に加わるのは礼ではない。方物を奉じて罪を待つのが妥当だ」と主張した。宋の太祖はその礼を知ることを嘉し、供帳を改め、牲餼と上尊の酒を加賜した。
  • 知制誥の李穆に從鎰を送り帰らせ、後主に速やかに自ら帰順するよう諭旨を伝え、曹彬らには攻撃を緩めて待つよう命じた。だが後主はついに行かず、城の陥落に至った。從鎰は後主に従って宋に帰し、左領軍衞大将軍を授けられた。まもなく病没した。

鄂國公從謙(元宗の第九子)

  • 從謙は元宗の第九子、後主の同母弟。数歳のとき囲碁を詠んだ詩に趣致があり、後主は感嘆した。
  • 鄂國公・宜春王を歴任し、吉王に進んで江州に出鎮。制度を貶した際にふたたび鄂國公に降された。
  • 宋に帰してからは右領軍衞大将・神武統軍、のち右龍武大将に遷った。隋州・復州・成州の三州を歴任し、上表して名を從誧と改めた。淳化五年(994年)、貧しくて自活できないとして外任を求め、本官のまま武勝軍の行軍司馬に充てられ、月俸銭三万を給された。
  • 子の仲偃は宋の大中祥符八年(1015年)の進士に及第した。
  • 從謙は風采が引き締まって鋭く、しかも興趣は豪放で洒脱であった。また才性が早くから成熟し、書法にきわめて優れた。
  • 文章はたいてい下書きを作らずに書き、たわむれに作った「夏清侯傳」は当時大いに称賛された。

邵平郡公從度・文陽郡公從信

  • 從度(從慶とも書く)もまた元宗の子で、長じて楚定王(景遷)の後嗣とされた。後主の時に昭平郡公に封じられた。北遷後、左監門衞大将軍・神武左廂都指揮使を授けられた。
  • 從信は元宗の末子。後主の時に文陽郡公に封じられ、宋に帰して右監門衞大将軍となった。
  • 元宗には十子あったが、文獻太子(弘冀)・弘茂・後主・從善・從鎰・從謙・從度・從信の八人しか分からず、二人は名を逸している。かつて『閩志』を読むと、後主の弟の良佐が武夷山で修道し、後主が有司に命じて會仙観を建てさせ、良佐を演道冲和先生に封じたとある。良佐は逸した二人のうちの一人ではないかと思われるが、史籍には伝わらない。

清源郡公仲㝢(後主の長子)

  • 仲㝢、字は叔章。後主の長子で文芸の才があった。はじめ清源郡公に封じられた。
  • 国が亡んで北遷し、左千牛衞大将軍を授けられた。後主の喪に服して、哀しみのあまり制を越えるほど身を損なった。喪が明けると積珍坊の邸宅一区を賜った。
  • 久しくして自ら「一族は大きいが家は貧しい」と申し出て郡を治めることを求め、郢州刺史を拝した。任地では寛簡をもって称された。淳化五年八月(994年)に薨去、汴京に葬られた。享年三十七。
  • 子の正言は学を好んだが、これも早く没した。後主の血統はここで絶えた。

岐懐獻王仲宣(後主の次子)

  • 仲宣は後主の次子、小字は瑞保。仲㝢と同日に封を受け、宣城公に封じられた。
  • 三歳で『孝経』を読み一字も落とさず、音楽が奏されれば音調を聞き分けた。宮中の宴に侍しても礼度にかない、外で士大夫に会えば容を改めて会釈し、まるで大人のようであった。昭惠后はことのほか愛した。
  • 乾德二年(964年)、仲宣がわずか四歳のとき、ある日、仏像の前で遊んでいると、大きな瑠璃の灯を猫が触れて落とし、けたたましい音を立てた。仲宣は驚いて癎の病を得て、ついに薨じた。岐王を追封、諡は懐獻。
  • そのとき昭惠后はすでに重病で、仲宣の夭折を聞いていっそう悲しみ、数日で息を引き取った。
  • 仲宣が没した当初、後主は昭惠后の心をさらに傷つけるのを恐れて黙って座して涙を呑み、詩を作って思いを綴った。それを幾度も口ずさむと、左右の者も涙を流した。

後主の従子たち

  • 仲遠は後主の従子。累進して戸部尚書。後主に従って宋に帰し、右驍衞将軍を授けられた。
  • 仲興も後主の従子。後主の時に刑部尚書。国が亡んで宋に入り、右武衞将軍を授けられた。
  • 仲偉は後主の従子。禮部尚書を歴任し、宋に帰して右屯衞将軍となった。
  • 仲康は後主の従子。殿中監となり、宋に降って右領衞将軍となった。ほかに殿中監の仲某(名を欠く)もまた後主の従子で、北遷して宋の監門衞将軍となった。

烈祖の諸女・元宗の女たち

  • 烈祖には七人の娘があった。永興公主はその第四女で、伝は「呉春秋」に見える。ほかに豐城・盛唐・太和・建昌・玉山の五公主がいるが、いずれも生母は不明。また興國公主は功臣の馬仁裕に嫁いだが、これも序列は詳らかでない。
  • 太寧公主は元宗の娘。定遠節度使の劉崇俊の子・劉節に嫁いだ。

芳儀(元宗の女)

  • 芳儀もまた元宗の娘だが、序列も封号も伝わらない。後主が国を失うと一族とともに北へ移り、汴京に住み、宋の供奉官である孫某の妻となった。
  • 孫某が武疆都監に赴任するのに従って行った。宋の太宗が太原を下し、その勢いに乗じて幽州を取ろうとしたが、契丹の大軍が到来して宋軍は潰えて帰った。河北の郡県は兵禍に遭い、武疆も守りを失って、芳儀は捕らえられた。
  • 遼の聖宗は彼女を得て、その美しさを喜び、さらに家柄を尋ね知って宮中に納れ、樂部に配し「芳儀」に封じた。これは遼の内職の名である。
  • 芳儀は、元宗の在位中に廬山の九天使者観をたびたび修造し、寄進者の姓名を石に刻んだなかに太寧公主・永寧公主の名があると聞いており、芳儀とは永嘉公主のことではないかとも言われる。