十国春秋卷十八 列傳 繼國后周氏
要約
継国后周氏は昭恵后の妹で、警敏な才思を持ち物静かな人柄であった。姉の死後、まだ喪に服す年若さで宮中にとどまっていたが、開宝元年、聖后の喪も明けて中宮が久しく空いていたことから、後主は太常博士陳致雍に古今の婚礼の沿革を調べさせ、学士徐鉉と知制誥潘佑に参定させた。楽を用いるか否か、答拝の礼をどうするかなど意見が対立し、文安郡公徐遊の裁定で潘佑の議が採用された。納采では鵝を白雁に代えて文繍を被せ、書を銜えさせるなど特に親迎の礼を挙げ、見物の民衆は数万人に及んだという。実際には正式な礼を経る前から寵愛を受けており、後主がそれを「刬襪金縷鞋」の艶詞に詠んだことは世に知られ、婚礼当日には韓熙載ら群臣が詩でこれを諷したが、後主は咎めなかった。
継室となってからの寵愛は昭恵后の時以上で、後主は花々の中に設けた狭い亭で睦まじく酒を酌み交わし、柔儀殿には金玉で飾った玉太古・容華鼎などの豪華な調度を置いた。南唐滅亡後は後主に従って宋の都に移り、鄭国夫人に封じられて命婦として宮中に出仕したが、宴に召されるたびに深く悲しみ、後主を詰り泣く声が外まで聞こえた。太平興国二年、後主が急死すると悲哀のあまり間もなく后も世を去った。
現代語訳全文
繼國后周氏
- 繼國后周氏は昭惠后の女弟(妹)である。警敏で才思あり、神彩は端静であった。昭惠后が殁したとき、后はまだ禮服(喪服)に勝(た)えず宮中で待年(成年を待つこと)していた。翌年、後主は尊位に居り、聖后(昭惠后の母)も喪に服していたため、中宮(皇后の座)は久しく空いていた。開寳元年、初めて后を立てて継室とすることを議し、太常博士の陳致雍に命じて古今の沿革を考え昬礼(婚礼)を草具させた。また学士の徐鉉、知制誥の潘佑に命じて参定させたが、鉉は「昬礼は吉事で楽を用いない」と言い、佑は「今古は相沿襲するものではない」として楽を用いることを請うた。鉉は「按ずるに古の房中楽には鐘鼓が無い」と言ったが、佑は詩の「窈窕淑女、鐘鼓楽之」を引いて房中楽にも鐘鼓があるべきだと言った。后が初めて君に見えるとき、『後魏書』には先に拝して後に起つ、帝が後に拝して先に起つという文があり、鉉はこれを挙げて夫婦の礼は人倫の本であるとし答拝を請うたが、佑は王者の昬礼は庶人と同じではないとして答拝しないことを請うた。議は久しく決せず、後主は文安郡公の徐遊にその異同を評させたところ、遊は多く佑の議を是とし、そこで施行された。月を踰えて遊は病んで疽(できもの)ができ、鉉はその己の議を主とされなかったことを懟(うら)み、戯れに人に「周公・孔子もまた厲(たた)りをなすことができるのか」と語った。納采を将にしようとするとき、後主は鵝(がちょう)を白鴈に代え文繍を被せ、書を銜(くわ)えさせることを命じ、特に親迎の礼を挙げた。民庶で観る者は数萬人に及んだ。后は少(わか)くして戚里(外戚の家)より宮掖に入り、聖尊后は絶えてこれを愛した。後主は楽府を製してその事を艶とし、「刬襪金縷鞋」の句があり、辞は甚だ狎昵(なれなれしい)で頗る外に伝わった。后を納れるに及んでようやく礼を成しただけであった。翌日、大いに群臣を燕し、韓熙載以下みな詩を作ってこれを諷したが、後主はこれを譴めなかった。后は寵を被ることが昭惠后の時に過ぎた。当時、後主は常に群花の中に亭を作り、紅羅で羃(おお)い玳瑁で押(かざ)り雕鏤して華麗であったが極めて狭く僅かに二人を容れるだけで、いつも后とここで酣飲した。また柔儀殿には玉太古・容華鼎・金鳳口哺の諸器を設け、みな金玉で作り璀璨(きらびやか)として目を奪った。国が亡ぶに及んで後主に随って北遷し、鄭國夫人に封ぜられた。慣例により命婦として宋宮に入った。燕楽が進むたびに数日を裁(わずか)に出ただけで、出れば必ず大いに泣いて後主を詈(ののし)り、その声は外に聞こえた。後主は多くこれを避けて宛転(婉曲)にした。太平興国二年、後主が暴殞(急死)すると、后は悲哀に耐えられずまた薨じた。