十国春秋卷十八 列傳 昭惠國后周氏

要約

昭恵国后周氏は小字を娥皇といい、司徒周宗の娘。十九歳で入宮し、書史・歌舞・采戯・奕碁に通じ、特に琵琶に巧みで、元宗の御前で妙技を披露し、元宗秘蔵の焼槽琵琶を賜るほどであった。後主の即位とともに国后に立てられて寵愛を独占し、高髻纎裳や首翹鬢朶の新しい装いを創案して人々に流行させた。音楽への造詣も深く、雪の夜の酒宴で即興に「邀酔舞破」を作曲し、また「恨来遅破」も作った。散逸していた霓裳羽衣の旧譜も琵琶で再現し、開元天宝の遺音を世に伝えた。しかし後主が音律に耽溺して政務を怠るようになり、監察御史張憲の諫言も功を奏さなかった。

乾徳二年、后は病に伏し、後主は朝暮に食事を見守り薬を親しく嘗めるなど付きっきりで看病したが快復せず、臨終に際して十年の寵愛への感謝と、子を失い恩に報いられなかった無念を語り、琵琶や玉環を形見として渡し、薄葬を望んで自ら化粧を整え息を引き取った。享年二十九。後主は自ら誄文を作って石に刻み、后の愛した琵琶とともに葬り、みずから「鰥夫煜」と称して数千言に及ぶ哀悼の文を焼いた。一説には、妹(後の継室)がすでに入宮していたことを知って恚り、死に至るまで顔を背け続けたともいう。

現代語訳全文

昭惠國后周氏

  • 昭惠國后周氏は小字を娥皇といい、司徒宗の女である。十九歳で皇宮に帰し、書史に通じ歌舞をよくし、特に琵琶に巧みであった。かつて元宗の御前で寿を為したとき、元宗はその巧みさを歎じ、焼槽琵琶をこれに賜った。これは元宗が寳惜(大切にする)していた器であった。后は采戯(賭け事)・奕碁(囲碁)に至るまで妙絶しないものはなかった。元宗が南都に幸したとき、詔して音(消息)を存問し令婦(賢婦人)と称した。後主が嗣位すると册立されて國后となり、寵嬖(寵愛)は房を専らにした。高髻(高く結った髪)纎裳(細身の裳)及び首翹(かんざし)鬢朶(びんの飾り)の粧いを創案し、人々はみなこれに倣った。ある雪の夜、酣燕(酒宴)のとき杯を挙げて後主に舞を起こすことを請うたところ、後主は「あなたが新しい曲を創れば、それでよい」と言った。后はすぐに牋(紙)に命じて譜を綴らせ、喉には滞る音無く筆には停まる思い無く、たちまち譜が成った。いわゆる「邀醉舞破」である。また「恨来遅破」があり、これも后が製したものであった。もとより唐の盛時、霓裳羽衣(曲名)が最も大曲とされていたが、乱離の後にすっかり伝わらなくなっていた。后は残譜を得て琵琶でこれを奏したところ、これによって開元天寶の遺音が再び世に伝わった。内史舎人の徐鉉はこれを国工の曹生に聞かせた。鉉もまた音を知る者で、曹生に「法曲は終わると緩やかになるものだが、この曲はかえって急になるのはなぜか」と問うと、曹生は「旧譜は実は緩やかであったが、宮中の誰かがこれを易えたのだろう、吉徴ではない」と言った。後主は后が音律を好むことにより自らも耽溺し政事を廃した。監察御史の張憲が切に諫め、帛三十疋を賜って敢言を旌(表彰)したが、それでもやめなかった。まもなく后は病に臥し、後主は朝暮に食事を見、薬は親しく嘗めなければ進めず、服を解かないまま夜を過ごすこと重なった。后の病が革(あらた)まっても乱れず、後主に「婢子(わたくし)は多幸にも質を託して君門に、竊かに華寵を冒すこと十載でございました。女子の栄はこれに過ぎるものはありません。ただ足りないのは、子を殤(うしな)い身は殁し、徳に報いることができないことです」と言い、みずから元宗が賜った琵琶及び平時に約臂(腕に巻く)していた玉環を取って後主に別れとした。また書を作って薄葬を請い、三日後、沐浴粧澤(化粧)し自ら玉を含み、瑤光殿の西室で殂じた。時に乾德二年十一月甲戌、享年二十九であった。懿陵に葬られ、昭惠と諡された。後主は哀苦して神を傷め、杖に扶けられてようやく起ち、自ら誄(るい、追悼文)を製してこれを石に刻み、后が愛した金屑檀糟の琵琶と共に葬った。また書を作ってこれを燔(焼く)し、自ら鰥夫(やもめ)煜と称した。その辞は数千言に及び、みな極めて酸楚(悲痛)であった。ある者は、后が病に臥していたとき小周后(后の妹)がすでに宮中に入っており、后がたまたま帳を褰(かか)げてこれを見て「あなたはいつ来たのか」と驚いて言うと、小周后は幼くまだ嫌疑を知らず「もう数日になります」と答え、后は恚(いか)って死に至るまで顔を外に向けなかった。それゆえ後主は過度に哀しんでその跡を掩ったのだという。