十国春秋卷十八 列傳 光穆皇后鍾氏

光穆皇后鍾氏

  • 光穆皇后鍾氏の父の泰章は呉に事えて義祖の裨將であったが、計をもって張顥を殺す功があった。義祖は泰章の次女を元宗に配することを命じ、これが后である。義祖は初めてこれを見て嘆じて「この児でなければこの女に敵わないだろう」と言った。初め縣君に封ぜられ、累加されて國夫人となった。昇元中に齊王妃に封ぜられ、元宗が即位すると立てられて皇后となった。后は少(わか)くして富貴の中に長じたが、玩好(ぜいたく品)を事とせず、笄(かんざし)や大練(粗末な絹)を副(そ)え澹如(あっさりしている)であった。すでに大位に居ってからも、季節ごとの賜与は必ず諸娣姒(きさきや姫たち)に先んじてから宮中に及ぼした。淮上で兵が起こったときは后は常膳を損じ、楽を挙げないこと数ヶ月に及んだ。後主が嗣立すると太后となり、父の名によって聖尊后と改称された。后が病に臥すと後主は朝夕側に侍り、衣は帯を解かず、薬は必ず親しく嘗めてから進めた。乾德三年十月に崩じ、この日金陵で沙が雨(ふ)った。後主は毀瘠骨立(やせ衰えて骨だけになる)し杖をついてようやく起った。順陵に袝葬され、光穆と諡された。