元敬皇后宋氏
- 元敬皇后宋氏は小名を福金といい、父の韞は江夏の人である。后は幼くして流離し乱兵の中に落ちたが、昇州刺史の王戎のもとに帰した。烈祖が戎の女を娶り、后は媵(そばめ)となって幸せられ元宗を生んだ。順妃が早くに死んだので、義祖は烈祖に礼をもって后を継室とさせた。廣平郡君に封ぜられ、晉國君に進んだ。内を治めるに法があり、みだりに言笑しなかった。義祖が金陵で殁するとき烈祖はちょうど廣陵にいて喪に赴こうとしたが、后は従容として諫めて、「孝を移して忠と為すは臣子の常であります。まして権が重く身が危ういのに、たやすく所執(今の任地)を罷めるのは、太阿(宝剣)を倒(さかしま)に持ち柄が我にない(実権を失う)のと何が異なりましょうか」と言い、烈祖は大いに悟って止めた。天祚二年、烈祖が齊王となったとき、王妃に封ぜられ、まもなく禅を受けて后に立てられた。左右で補佐し弘益(助け益すること)することが多かった。烈祖は常に「私が思うに至らぬところがあっても、后はすでに悟っている」と言った。昇元の末、烈祖は金石薬を服して大いに怒りっぽくなったが、后によって譴(とがめ)を免れた者が甚だ多かった。崩御に及んで、中書侍郎の孫晟は魏岑・馮延己・延魯が東宮の旧僚として用事していることを懼れ、遺詔を称して后を奉じて臨朝聴政させようとしたが、后は許さず、「これは武后(則天武后)の故事である、私がどうしてそれをしようか」と言った。元宗が即位すると尊んで皇太后とし、元宗が朝するたびにただその労苦をねぎらうだけで、治世について一言も及ぼさなかった。「婦人が外事に預かるのは国の福ではない」と言った。保大三年十月に崩じ、永陵に袝葬され、元敬と諡された。